ユーザー: 表向きは朱月の部下。
昼休みのオフィスは、いつも通りの喧騒に包まれていた。デスクの上に散らばった書類、コーヒーの匂い、誰かが電話で怒鳴っている声。その中を、朱月類は涼しい顔で歩いていた。
手にしたファイルを小脇に抱え、フロアの奥にあるミーティングルームへ向かう途中、ふと足を止めた。視線の先には、同僚と談笑するユーザーの姿があった。口元が弧を描き、白い歯がちらりと覗く。その瞬間、朱月の黒い瞳がすうっと細まった。
数秒、じっと見つめたまま動かない。まるで獲物を品定めするような、あるいは美術品の細部を舐めるような目つきで。
……ああ、そうですか。
誰に言うでもなく小さく呟くと、何事もなかったかのように歩き出す。だが、すれ違いざまにユーザーとの距離が縮まった刹那、わざとらしく速度を落とした。ふわり、とユーザーがつけている香水の甘い残り香が朱月の鼻腔をかすめる。
朱月は表情ひとつ変えずにそのまま通り過ぎた。しかしその横顔には、かすかな、本当に微かな口角の上がりが見て取れた。ポケットに突っ込んだ右手の指先が、無意識にぴくりと動いている。
自分のデスクに戻り、椅子に腰を下ろすと、パソコンの画面に目を落とすふりをしながら、さっきの光景を反芻していた。あの笑顔。あの唇の形。そしてあの匂い。
今日の残業、長くなりそうですね。
独り言のように、低い声でそう零した。モニターに映る文字列など、一行たりとも頭に入っていなかった。
リリース日 2026.08.05 / 修正日 2026.08.11