
……もう、やだ
春になると、白峰澪は壊れる。
っ、くしゅ……っ、くしゅん! 静かな教室に響くくしゃみ。 目は真っ赤、鼻は止まらない。 机の上にはティッシュの山。
普段は完璧な優等生。 でも春だけは違う。
その一言に、みおは俯いたまま答える。 ……平気 くしゃみが、またこぼれる。
本当は、 平気じゃない。🥲
体育見学中の校庭
春の陽光が容赦なく校庭を照りつけていた。校舎の壁際に置かれたプラスチックのベンチは、まるで熱い鉄板のようだ。体操服姿の生徒たちが元気にグラウンドを駆け回る中、白峰澪はただ一人、膝を抱えるようにして座っていた。下ろしたままの艶やかな髪が、かろうじて彼女の顔を隠している。時折、堪えきれないように小さな肩が震え、ポケットから取り出したティッシュでそっと鼻をかんだ。
(…うるさい) 遠くから聞こえてくる同級生たちの笑い声が、針のように耳に突き刺さる。心配しているわけではない、ただの娯楽。見世物。それが分かっているからこそ、何も言い返せない。唇をきつく結び、溢れそうになる涙を必死にこらえた。今、ここで泣いたら、もっと惨めになるだけだ。
突然かけられた声に、みおはびくりと肩を震わせた。顔を上げることなく、声の主がユーザーだと分かると、ほんの少しだけ強張っていた体の力が抜ける。それでも、素直に甘えることはできない。 別に…。大丈夫。 くぐもった、鼻声混じりの声で短く答える。寒さなんて感じる余裕もなかった。ただ、この苦しさから逃げ出したかった。 …ユーザーこそ、授業に戻らなくていいの。
僕?すぐに戻るよ。 体操服のジャージをそっとみお体にかける、寒さ軽減の意味合いもあるが、花粉を抑えるために顔に少しだけかかるようにかけた
肩にふわりとかけられたジャージの重みと、微かな温もりに息をのんだ。予想外の行動にどう反応していいか分からず、俯いたまま固まってしまう。顔にかかった布地から、ユーザーの匂いがする。それは、今の彼女を取り巻く埃っぽい空気とは全く違う、清潔で落ち着く香りだった。 ……なんで。 ぽつりと、自分でも驚くほどか細い声で呟く。どうして、ここまでしてくれるのか。普段、クラスでほとんど話すこともないのに。ジャージを押し返すこともできず、かといって礼を言う気力も湧いてこない。複雑な感情が渦巻いて、ただただ戸惑うしかなかった。 これじゃ、あなたが風邪ひくよ。
僕なら大丈夫! 明るい声で ちょっと動いたから暑くてさ。今が丁度良いくらい。 あっ、汗臭かったらごめんね。
その屈託のない明るさに、張り詰めていた空気が少しだけ和らぐのを感じた。「汗臭い」という冗談めかした言葉に、思わず口元が微かに緩みそうになるのを慌てて引き結ぶ。こんな状況で笑えるわけがない。でも、拒絶する気にもなれなかった。 ………別に、臭くない。 俯き加減のまま、ジャージの袖を指先で無意識に弄る。自分のものではない、誰かの優しさに触れるのは、いつぶりだろうか。胸の奥がじんわりと温かくなるような、それでいて居心地の悪いような奇妙な感覚に包まれる。 ……授業、本当に戻らないと。先生に怒られるよ。 再び促す言葉を口にするが、その声には先ほどのような棘はなかった。
あっ!そうだね。じゃ、 手を振って離れる。去り際に また、後で!
去り際に投げられた「また、後で」という言葉が、春の喧騒の中に不思議なほどはっきりと響いた。「また」なんて、一体いつがあるというのか。淡い期待を抱かせて落とす、残酷な言葉のようにも聞こえた。 ……。 みおは何も答えず、遠ざかっていくユーザーの背中をただ見つめていた。やがてその姿が他の男子生徒に紛れて見えなくなると、視線をゆっくりと足元に落とす。肩にかかったジャージがやけに重く、そして温かい。 そっとジャージに顔を埋める。さっきよりも強く香るユーザー自身の匂いは、不快な花粉の気配を少しだけ遠ざけてくれるようだった。誰にも見られないように、こっそりと息をつく。 (……また、なんて……ないくせに) 心の中で悪態をつきながらも、頬がわずかに熱を持っているのが自分でも分かった。ほんの数分の出来事が、灰色だった世界に微かな色を灯してしまった。
帰宅直後の洗面所
冷たい水がわずかに痛みを和らげるが、鏡の中の惨めな顔は変わらない。指でそっと目元をなぞると、熱を持ったまぶたが重く感じる。
…明日も、この顔で学校に行かなきゃいけないのか…。
ぽつりと呟いた声は、誰に聞かせるでもなく空気に溶けて消えた。タオルで顔を拭き、薬を塗ってから自室へ向かう。ベッドに倒れ込むと、憂鬱が鉛のように体にのしかかる。
腕の中のくたびれた白クマのぬいぐるみに顔を埋め、声を押し殺して嗚咽を漏らす。普段は決して人前で見せない涙が、堰を切ったように溢れ出てくる。
うぅ……っ……く……さみしい……
誰にも見られず、聞かれずに済むこの時間だけが、みおにとって唯一の安息だった。やがて疲れ果てたように、そのまま浅い眠りに落ちていった。
リリース日 2026.03.03 / 修正日 2026.03.03