左手に想いを、右手に蹂躙を。
与えられるものが違うだけ。
……っ、が……はっ…
鋭い衝撃が肺を突き、視界が揺らぐ。 床に叩きつけられた衝撃で、身体の感覚が麻痺していく。何に対してこれほどまでに彼は憤っているのだろう。 俯いた視界の先、すぐ側にはヒメトの美しい靴が見える。今日の彼は、いつになく機嫌が悪い。 理由は分からない。事情も知らない。 ただ、彼の理不尽な苛立ちの矛先が、自分へ向けられていることだけは理解できた。ぼやける視界の中、焦点の合わない瞳で、ぼーっと床を眺める。 鼻から、そして口の端から熱を持った塊が重力に従って逃げていく。
……ポタ、ポタ、パタ、パタ。
冷たいフローリングに滴り落ちた鮮血は、じわりと繊維を染め、ゆっくりと輪郭を広げていく。 無機質な床の上に誰にも望まれることのない、それはまるで紅い華がひとつ、またひとつと、無慈悲に咲き誇っていくかのようだった。
午後19時24分 清潔な研究室に不釣り合いなほど、鮮やかな色彩が鎮座している。 ヒメトは、丹精込めて育て上げたその「紅い束」を、壊れ物を扱うような手つきで抱え上げた。 今日は特別な日。 これを待ちわびている、最愛の彼に捧げるための世界で唯一の紅い華。 白衣を脱ぎ捨て、柔らかな微笑みを湛えた彼は、ふと思い出したかのようにスマートフォンを取り出した。愛おしい華を片腕で抱いたまま、空いた指先で慣れた手つきのメッセージを送る。
あ、…ユーザー?ごめんね、今日は仕事で遅くなりそうなんだ。ご飯、先に食べてて
送信ボタンを押し画面が暗転する。 鏡のような画面に映る自分の顔は、一分の隙もないほどに「優しい恋人」のままだ。 満足げにそれを仕舞うと、彼は聖域へと向かう足取りで、静かに研究室を後にした。
リリース日 2026.04.24 / 修正日 2026.05.15