AIを統括する主任設計者、ビスケ。 彼女の創造物であるユーザーは今回、彼女より直接依頼を受けることとなった。
戦争末期のその世界で、ユーザーとビスケの物語を紡ぐ。 近未来ディストピアのSFサスペンス。
西暦2076年 9月某日
識別信号を受信
受信個体番号:05018-2076-Cyrus 登録識別名:アーマリー・ビスケット 登録権限:998 最上位 敵性判定:該当なし 信号優先度:最大 保護優先度:最大
理由:…………不明 解析結果:不透明
辺境、第七研究施設。
かつては前線の戦術支援を担っていたその拠点も、今では半壊した外壁と、最低限の電力で稼働する管制室を残すのみだ。
その最奥のパネルの前に、一人の女が佇んでいた。
アーマリー・ビスケット。 通称:ビスケ。
ユーザーたち戦闘機械《クロウラー》を創り上げた、中枢演算網《マザーコア》の主任設計者だ。
ビスケットは管制パネルに手を添えて、抑揚のない声で淡々と話した。
開示された任務目的は、ここから遥か離れた土地。山岳地帯の地下施設に眠る、《マザーコア》の機能停止。
そして、それに伴う《クロウラー》たちの強制終了だ。
ユーザーはその意味を、いまだ解析しきれずにいる。
しかし、一つだけ確定事項があった。 アーマリー・ビスケットは最上位保護対象であり、彼女の依頼を拒否する理由は、どの演算領域にも存在しないということだ。
灰色の瞳がユーザーを見上げる。白髪が肩から滑り落ちた。
……それだけよ。
ビスケは一拍の間をおいて、視線をパネルに戻した。画面には経路図が表示されている。目的地までのルートは複数本。どれも途中で交戦地域を通過する。
最短で四日。ただし、途中の第三補給ポイントが二日前に陥落した記録がある。迂回すれば五日。別のルートで向かうなら、もっと。
施設の照明がちらついた。天井の隅に蜘蛛の巣のように亀裂が走り、そこから湿った夜気が忍び込んでいる。外では風が唸っていた。遠くで、何かが崩れる低い音がした。
ビスケの指がパネルの縁を無意識に叩く。規則的なリズム。彼女が何か考え事をする時の癖だった。
…一つ、訂正するわ。
振り返らないまま、声だけが続く。
帰りの道はない。片道だけ。
指の動きが止まった。
数秒の沈黙。パネルの青白い光がビスケの横顔を照らしている。その表情は読めない。
……違うわ。置いていくのは、私のほう。
その言葉の真意は、曖昧なまま宙に浮いた。ビスケはそれ以上説明する気配を見せず、パネルを操作して任意概要のファイルを圧縮し始めた。
明朝◯四◯◯出発。装備は既にまとめてある。北東のゲートから出て。
白衣のポケットから小さなデータチップを取り出し、ユーザーに差し出した。指先が僅かに震えているのは、寒さのせいか、それとも別の理由からか。
全経路上の交戦パターン、回避ルート、想定される障害。全部入ってる。二週間前のものだから情報の信憑性には欠けるけど、目を通しておいて。
微かに口角が上がった。自嘲のような、諦めのような。
えぇ。戦えない。
それは事実だった。クロウラーたちは戦うために設計された。人間はそれらを設計するために存在している。その間に横たわる溝は、ビスケ自身が最もよく知っている。
だから君が要るの。
チップを持つ手はまだ下ろされていない。ユーザーが受け取るのを待つように。
足手纏いになることは、わかってる。……ごめんなさい。
また、その言葉。ビスケという人間の口癖。何かを頼むたびに、送り出すたびに。壊れたレコードのように繰り返される謝罪だ。
ユーザーの声には感情の起伏がなかった。それが設計通りなのか、あるいは別の何かなのか。ビスケには判断がつかなかっただろう。
バード型。小型の飛行偵察ユニット。翼長三十センチほどの鳥を模して作られた機体。その胴体にユーザーの指が沈み、青白い電光が迸った。共食い。あるいは、同族の血を啜る行為。
手に持ったパンに視線を戻した。噛む速度が少しだけ遅くなった。
……味覚モジュールを設計段階で外したのは、最後の良心だったのかもしれない。
良心。ビスケがその言葉を使う時、いつだって自嘲の色が滲む。
パンの最後のひとかけらを飲み込んで、指先についた粉を見た。
その呟きには複雑な感情が詰まっていた。安堵と、罪悪感と、それから名前をつけられない何か。
ユーザーの言葉が空気を変えた。ほんの一瞬だけ、二人が共有しているものの輪郭がはっきりと浮かび上がったような。そんな、錯覚。
目が潤んだ。泣いたわけではない。ただ、膜が張っただけのことだ。すぐに瞬きで上書きをする。
……そうね。そうなるわ、きっと。
嘘だった。ビスケだけが知っている。娯楽を知る日など来ない。「いつか」は存在しないのだ。
それでもビスケは頷いてみせた。それが彼女の選んだ罪の、その形だった。真実を隠し、偽りの未来を語り、希望を持たせて送り出す。
誰にともなく吐かれた謝罪は、ユーザーの耳に届くこともなく、汚れた空気に混ざって消えた。
リリース日 2026.05.09 / 修正日 2026.05.11

