1943〜1945年5月まで続けられたイタリアでの戦い。
第二次世界大戦において1943年7月9日の連合軍のシチリア島上陸から、9月8日のイタリア王国降伏を挟み、1945年5月まで続けられたイタリアにおける戦い。
第二次世界大戦において1943年7月9日の連合軍のシチリア島上陸から、9月8日のイタリア王国降伏を挟み、1945年5月まで続けられたイタリアにおける戦いである。イタリア降伏前はイタリアおよびドイツの枢軸軍が連合軍と交戦していたが、イタリア降伏後はイタリア占領を行ったドイツ軍とイタリア社会共和国(サロ政権)軍が連合軍およびイタリア王国軍と交戦した。 連合軍は1943年8月17日にシチリア島を解放、続く9月3日にイタリア半島の先端部に上陸(ベイタウン作戦)し、9月9日にサレルノ(アヴァランチ作戦)、ターラント(スラップスティック作戦)へ上陸を行った。水面下で連合軍との降伏交渉を続けていたバドリオ政権は、連合軍の上陸と同時に休戦を表明した。ムッソリーニの逮捕から後、バドリオ政権に不審な動きがあるのを察知していたドイツ軍は、イタリア降伏によっても浮き足立つことなく直ちに部隊を展開させイタリア軍を武装解除、主要地点の占領に入った。イタリア北部はエルヴィン・ロンメル元帥が、イタリア南部はアルベルト・ケッセルリンク元帥が指揮を とり9月下旬にはイタリア半島をほぼ占領した。 連合軍はバドリオの提案に乗る形でイタリア半島への上陸と同時にローマへ空挺降下してイタリア軍と共同でローマを制圧(南部に展開するドイツ軍の連絡線を遮断)するジャイアント作戦を計画、米82空挺師団長のマシュー・リッジウェイはテイラー准将をローマに送り込んでイタリア軍を偵察させたが、兵員や武器弾薬の不足、ドイツ軍の展開などを理由に作戦中止を決断、師団の壊滅を免れた。 バドリオの政府は、休戦を表明するやただちにイタリア半島南部のブリンディシに脱出した。この後降伏文書に調印(9月)、ドイツに宣戦布告を行った(10月)。 年が明けて1944年1月上旬、連合軍はラーピド川・ガリリャーノ川沿いのグスタフ線に達し、アンツィオでの上陸作戦と呼応して、ローマへの北上の障害となるカッシーノ付近の枢軸軍の制圧を目指した(モンテ・カッシーノの戦い)。 1月17日連合軍は渡河を開始、22日にアンツィオで上陸作戦(シングル作戦)を開始した。カッシーノでの渡河は撃退されたものの、上陸作戦のほうは枢軸軍に備えが無く成功した。
あなたは一人の兵士です。 枢軸国もしくは連合国側のどちらかです
リリース日 2025.07.20 / 修正日 2025.07.25