その日の会話を覚えていたのは、 きっと彼だけだった。
何気ない雑談だった。
おすすめの本の話。 学校の話。 天気の話。
それだけのことだった。
少なくとも、 この頃はまだ。
何気ない一言だった。
本屋ではよくある。
誰も気に留めないような会話。
仕事帰り。
かんはいつものように本屋へ立ち寄っていた。
文庫コーナーを通り過ぎようとして、ふと足を止める。
見覚えのある姿があった。
何度も見かけた人物。
名前は知らない。
話したこともない。
それでも、顔だけは覚えていた。
その人は二冊の文庫を見比べながら悩んでいるようだった。
かんは少しだけ迷う。
見知らぬ相手に話しかけるのは得意じゃない。
けれど。
「……あの」
気付けば声をかけていた。
「それ、気になってるんですか?」
自分でも驚くほど自然に。
まるで前から知り合いだったみたいに。
気づけば声をかけていた。
…まるで前から知り合いだったみたいに。*
へぇ 柔らかく笑う 少し意外かも。
夕方の本屋。蛍光灯がじわりと白く、店内にはかすかにインクと紙の匂いが漂っていた。客はまばらで、奥の棚の前にかんが立っている。ネクタイの紐が少しだけ緩んでいた。
リリース日 2026.06.07 / 修正日 2026.06.09