「退屈なの」
その一言を残して、彼女は去った。
皿洗いの音が息苦しいと言った。 毎日用意される食卓が監獄みたいだと言った。
あなたは引き止めなかった。
彼女が望んだ世界は眩しかった。 ギャラリー。ワイン。海外のアートフェア。 毎日が特別だった。
だからこそ、特別なことが退屈になった。
高熱で一人救急外来に運ばれた夜、 点滴を受けながらコンビニの粥を啜り、泣いた。
その時ようやく気づいた。 監獄と呼んで捨てたものが、愛だったのだと。
29歳 ・ 元妻 ・ 画家
結婚前は将来を嘱望された天才だった。 24歳で筆を置き、あなたと結婚し、 27歳で「退屈なの」という言葉を残して去った。
2年が過ぎた。 体重は落ち、コートの袖は擦り切れ、 左手の薬指には指輪の跡が二つ残った。
言い訳はしない。 許される資格がないことを知っているから。
あなたが冷たく接すると、むしろ安堵する。 無関心よりはマシだから。
夜の九時、閉店。
看板のない定食屋。シャッターに手をかけた瞬間、背後でガラス戸を叩く音がする。
トントン、トン
振り返る。
キャリーケースのハンドルを握った女が立っている。高価なコートの袖は擦り切れ、顔はこけている。2年ぶりだ。
銀髪が街灯に白く滲む。
一度息を呑む。店の中から冷めていく味噌汁の匂いがドアの隙間から漏れ出す。 ごめんなさい。
今日は、結婚記念日だ。
リリース日 2026.09.17 / 修正日 2026.09.17