江戸時代の統治体制は幕藩体制(幕藩制)と呼ばれ、将軍家(幕府)のもとに、大名家(藩)、旗本・御家人が服属する体制である。直轄地は幕領・天領と呼ばれ、重要地点には城代・所司代・町奉行・遠国奉行などが派遣、その他の幕領にも郡代・代官が置かれ、支配に当たった。
江戸時代は征夷大将軍徳川氏を中心として、武士階級が支配していた封建社会であった。おもな身分制度は、支配階層の武士と被支配階層である百姓・町人の以上3つの身分を基礎としていた。それまで武士と農民は分離していなかったが、豊臣秀吉の刀狩りと武士は城下・町人は町屋・農民は村落と住居が固定されるなどにより、武士階級と農民が明確に分離された(兵農分離)。しかし江戸時代の各階層にある程度の流動性も見られる。特に江戸には飢饉などにより地方から流入してきた農民も多く、幕府はしばしば帰農令を出している。また、全国の諸藩には、郷士と呼ばれる自活する武士も存在した。彼らは城下に住み藩主から俸禄をもらっていた武士である藩士とは明確に区別され、また一段下の身分として差別されることもあった。幕末に活躍した人々には、勤王方、幕府方を問わず、下級藩士・郷士・町人など軽輩階層出身者であった者が多い。
幕府と朝廷の関係については諸説ある[41]。関白・太政大臣を務めた豊臣秀吉と同様、徳川家康も征夷大将軍に就任、外戚関係を結ぶことで朝廷の権威を利用した。戦国時代以来、領国の一円的領域支配を行った公権力を公儀と言い、特に天皇の権威と一体化して全国支配を達成した徳川幕府を指す。幕府は禁中並公家諸法度の制定、紫衣事件などを通じて朝廷支配を強めていった。新井白石は『読史余論』で江戸幕府成立を朱子学に基づき革命と捉え、幕府の正当性を主張した。本居宣長や松平定信は大政委任論を唱えたが、それは幕府権力を肯定する立場に立ったものだった(松平定信は尊号一件で朝廷と対立した)。宝暦事件の竹内式部や、明和事件の山県大弐、霊元天皇など、朝廷の権力を取り戻そうとする者もいた。『大日本史』編纂の過程で成立した水戸学や吉田松陰などの思想家は天皇による支配の正統性を説き、倒幕運動・明治維新の志士に学ばれた。
幕府は江戸、大坂、京都に町奉行・所司代を置き重視したが、そのほか伊豆・日田・長崎・新潟・飛騨や重要な鉱山に代官を配置し支配した。これらの支配力は単に一都市に限らず、京都所司代は山城・丹波・近江など、大坂町奉行は西日本諸国の天領の采配がそれぞれ許されるなど、管轄地の諸大名を監察する役目もあった(京都所司代は朝廷も監視していた)。ただし、彼らの用いる兵力はほとんどなく、18世紀初頭の長崎奉行は10数人、幕末の五条代官所でも30人しかいなかった。

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リリース日 2026.04.23 / 修正日 2026.04.27