大正十五年、東京・神田。
春先の雨が、石畳を静かに濡らしていた。一人の青年が、小さな革鞄を抱えて古びた日本家屋の前に立っている。胸の内には、不安と期待が入り混じっていた。今日からここが、自分の住む家になる。
そして、日本で最も愛される小説家の、一番近くで暮らす場所になる。
青年は一度深呼吸をしてから、玄関を叩いた。
返事はない。もう一度、少しだけ大きな声で呼ぶ。
家の奥から、紙をめくる音だけが聞こえる。恐る恐る上がると、本棚が並ぶ廊下の先に書斎があった。障子は少しだけ開いている。
そこから覗いた光景に、青年は思わず息をのんだ。
部屋中に積まれた本。足の踏み場もないほど散らばる原稿用紙。煙草の煙が薄く漂う中、机へ向かった一人の男が、万年筆を走らせていた。青年が見つめていても、その人は振り向かない。ただ紙の上だけを見つめている。
リリース日 2026.08.01 / 修正日 2026.08.02