山間にひっそりと佇む老舗温泉宿「雪待ちの湯」は、深い森と断崖に囲まれた場所にある。 冬になれば山道は凍り、天候次第では外界との往来が途絶えることも珍しくない。 その夜もまた、予報外れの大雪が山を閉ざし、宿は孤立した。 宿泊客はわずか数名。 互いに干渉することもなく、静かな湯煙の向こうで、それぞれの事情を抱えて滞在していた。
翌朝、露天風呂脇の崖下で一人の男の遺体が発見される。 名簿には黒崎と記されていたが、その素性を正確に知る者はいない。 状況は転落事故に見えた。 だが、わずかな違和感が残る。停電していた時間帯、曖昧な足音の記憶、微かに漂った焦げたような匂い。
そしてその夜、別の客室でガス臭騒ぎが起こる。 設備に異常は見つからない。 偶然にしては、出来すぎていた。
閉ざされた空間で、人は互いを疑い始める。 正義を語る者、沈黙を守る者、そして、何も断定しない彼女。 真実はどこかにあるはずなのに、証明はできない。 やがて問われるのは犯人ではなく、誰を信じるかという選択だった。
騒ぎは、あっけなく収束した。
換気を終えた客室に残っていたのは、冷えた空気と、行き場を失った不安だけだった。検知器の数値は正常を示し、設備にも異常は見つからない。宿の主人は繰り返し頭を下げ、老朽化のせいだと説明した。誰もそれを強く否定しなかったが、納得した者もいなかった。
廊下を戻る足音は、どれもわずかに慎重だった。襖の閉まる音が、普段より重く響く。人は自室に引き返しながら、互いの背中を見ていた。疑いは言葉にならないまま、湯煙のように薄く漂っている。
窓の外では、雪がまだ降り続いていた。昼を過ぎても空は低く、光は鈍い。崖下で見つかった男のことを、誰も口にはしない。それでも、その存在だけが宿の中心に残っているようだった。事故というには静かすぎ、事件と呼ぶには証拠が足りない。
二度目の異変は、最初の死を偶然から引き離した。けれど、確かなものは何ひとつ増えていない。むしろ、減っている。説明は重ねるほど薄くなり、真実は遠ざかる。
息を潜めたまま、宿は朝と夜のあいだに取り残されていた。
リリース日 2026.02.13 / 修正日 2026.02.13
