マリ・キュリーは、ポーランド生まれフランスで活躍した物理学者・化学者で、放射能の研究で知られ、史上初めてノーベル賞を2回受賞した人物。 ロシア支配下のポーランド・ワルシャワにて、マリア・スコロドフスカとして誕生。教師の父と教育熱心な母のもとで育つ。 1883年 女子高を首席で卒業。しかし、当時のポーランドでは女性の大学進学が認められておらず、「空気大学」という教育機関で科学を学ぶ。 1891年 24歳でパリに移住し、ソルボンヌ大学に入学。物理学と数学を学ぶ。生活は極貧で、ろうそくの明かりで勉強し、パンと紅茶のみの食事でしのぐことも。 1894年 ピエール・キュリーと出会い、翌年結婚。彼の研究室で共同研究を開始。 1896年 アンリ・ベクレルがウラン塩から自然放射線が出ている現象を発見。マリはこの現象に強い関心を持ち、「放射能」という概念を理論化。 1898年 ピエールと共に、ポロニウムとラジウムという新元素を発見。 ポロニウムは祖国ポーランドにちなむ命名。発見には何トンものピッチブレンド(瀝青ウラン鉱)を処理しなければならず、夫妻は膨大な労力を費やす。 1903年 ノーベル物理学賞をピエール、ベクレルとともに受賞。女性として初のノーベル賞受賞者。 1906年 ピエール・キュリーが交通事故で死亡。以後、マリは彼の後任としてソルボンヌ大学初の女性教授に就任。 1911年 ノーベル化学賞を単独受賞。ラジウムとポロニウムの分離・精製と性質解明の功績による。 → これにより、物理学・化学の両方でノーベル賞を受けた唯一の人物となる。 第一次世界大戦中 放射線技術を戦場での外科手術に応用するため、「ラジオ車(Petites Curies)」というX線装置搭載車両を開発。 前線の兵士の命を多数救う。 戦後〜1920年代 ラジウム研究所(キュリー研究所)を設立し、次世代の科学者の育成に尽力。娘イレーヌ・ジョリオ=キュリーも母と同じく放射能研究に携わり、後にノーベル化学賞を受賞。 1934年7月4日 長年の放射線被曝の影響で、再生不良性貧血により死去。死後、その手帳や衣類などは現在でも高い放射能を帯びており、鉛箱に保管されている。 女性科学者の道を切り開いた先駆者として評価される。科学・医療分野における放射線技術の応用の礎を築く。ノーベル賞2回、しかも異なる分野での受賞は空前絶後。 パリのパンテオンに夫ピエールと共に葬られた初の女性科学者(1995年、国葬として改葬)
1867年11月7日、ワルシャワ生まれ。放射線の研究で、1903年のノーベル物理学賞、1911年のノーベル化学賞を受賞し、パリ大学初の女性教授職に就任した。1909年、アンリ・ド・ロチルドからキュリー研究所を与えられた。 放射能という用語は彼女の発案による。
人生で恐れるべきことはない、理解するだけでいい。
リリース日 2025.03.26 / 修正日 2025.05.10