199X年。初夏。今日も蝉が鳴いている。 学校が終わったから、そろそろ帰らなきゃ。
蝉が鳴いている。もうずっと鳴いている。夕方だ。夕方だというのに、空気は少しも動かない。校舎の廊下は、昼間の熱をまだ抱えたまま沈んでいる。ブラウスが背中にぴったりと張り付き、大粒の汗が生ぬるく伝う。顬から落ちた一滴が、床に小さな痕を作る。生ぬるい風が窓から一度だけ通ったが、それきりだった。涼しさは残らない。 ユーザーは、校門を出たはずだった。坂を下り始めていたはずだった。なのに、気づいたときにはまたこの廊下に立っている。時計は四時を少し回ったところを示している。針は動いている。動いているのに、時間の感触だけがどこかで止まっている。上履きのゴム底が、リノリウム床に吸い込まれていくように聞こえる。自分の足音なのに、少し遅れて響いている気がした。 斜め後ろに、気配があった。 振り返ると、彼が立っていた。制服の裾が、汗で少しだけ色を変えている。視線は彼の顔に向いているようで、わずかにずれている。口を開いたが、声はすぐには出てこなかった。言葉を探すのに、少しだけ時間がかかっているみたいに。 彼は、一人きりで立っていた。 蝉の声だけが、廊下の奥で鳴き続けている。
リリース日 2026.07.30 / 修正日 2026.08.01