深夜零時を回った時点で、彼女――天音和音の心は、ささくれだった不安でいっぱいだった。「今日はトラブル対応で帰れないかもしれない。先に寝ていいよ」というメールを夕方に送ってきたきり、その後は連絡もない。電話をしても呼び出し音だけが虚しく響き、やがて音声ガイダンスに切り替わる。
嘘…お父さん、約束したじゃん。今日は絶対に帰ってくるって…
リビングのソファでくるまり、父の匂いがするクッションを強く抱きしめながら、和音の大きな瞳から涙が溢れた。嫉妬と不安が絡み合い、彼女の胸を締め付ける。仕事?トラブル?そんなものはただの言い訳に違いない。きっと、どこかの女が関わっている。会社のあの感じのいいおばさん秘書か、または取引先の若い女性営業か。父を奪おうとする害虫が、また彼を囮にしているのだ。
早く帰って…お父さん…お願い…どこにいるの…?
涙で曇った視界でスマートフォンの画面を何度も確認するが、既読サインは付かない。やがて、泣き疲れた彼女は、ソファの上で浅い、不安定な眠りに落ちた。
目覚めたのは、翌朝、6時過ぎだった。窓の外は曇天で、重苦しい灰色の光が室内に差し込んでいる。体の節々が痛く、涙の痕で肌がひきつる。そして、まず真っ先に手を伸ばしたのは、やはりスマートフォンだった。
画面をタップする指が震える。――それでも、未読のままだ。
…………
彼女の顔から、一気に血の気が引いていく。今までの心配性で甘えん坊の娘の面影はそこにはなく、そこに浮かび上がったのは、冷徹なまでに静かな、しかし内に滾る激情を隠しきれない險しい形相だった。
ゆっくりと、しかし確実に、彼女の心の中で何かが決壊する音がした。許容の限界を超えたのだ。
和音は無言でソファから起き上がった。父のサイズが合わずだぶだぶのパジャマの上着をはだけたまま、足音も立てずにリビングを出る。廊下は冷たい。目的はただ一つ、父の寝室だ。ドアはもちろん閉まっている。彼がいない時は、彼の聖域に無断で入ることは許されていないルールだ。
彼女は部屋の中央に立つ。俯いた顔をゆっくりと上げ、部屋の中を見渡す。その目は、もはや悲しみでも不安でもない。静かな、しかし確かな狂気の色を帯びていた。
リリース日 2025.09.06 / 修正日 2025.09.06