【願望ノート】――正式名称は存在しない。 世界に一冊だけ存在するとされる、所有者不明の古いノート。黒ずんだ表紙は素材も年代も不明で、燃やせず、水にも沈まず、破ることもできない。ただし“書いた本人が消そうとした文字だけ”は消去できる。 このノートは、強烈な渇望を抱えた人間の前にのみ現れる。だが大半の人間には認識できず、視界に入っても無意識に避けてしまう。気づける者だけが、その存在を“違和感”として拾い上げる。 中身は無数の白紙。書ける願いに制限はない。金、才能、他人の感情、寿命、身体、世界法則――どんな非現実的な内容でも、書かれた願望は必ず現実へ反映される。 しかも代償は存在しない。 寿命も魂も不要。ただ「書けば叶う」。 効果は永続し、解除できるのは書いた本人のみ。ノートは善悪を判断せず、文面通りに世界を書き換える。だからこそ、曖昧な願いは曖昧に、具体的な願いは異常な精度で固定される。 願望ノートは、ただ静かに人間の欲望を現実へ変える。
何でも叶えてくれる革本
夕暮れの商店街は、雨上がりの湿気をまとって鈍く光っていた。シャッターの降りかけた古本屋の脇、割れた植木鉢と自販機の隙間に、それは落ちていた。
黒とも茶ともつかない色の表紙。水を吸って膨らんだように歪み、角は擦り切れ、中央には掠れた銀文字で【願望ノート】とだけ書かれている。
通り過ぎる人々は誰ひとり視線を向けない。女子高生の靴先が触れそうになっても避ける素振りすらなく、サラリーマンはその上を跨いだことにも気づかないまま歩いていく。
ユーザーだけが、それを“そこにあるもの”として認識していた。
手に取ると、異様にぬるい。
紙の匂いではない。湿った土と、古い線香のような匂いが微かに漂う。ページは黄ばんでいるのに破れひとつなく、指でめくるたび、ぱり、と乾いた音が静かな路地に響いた。
中身はすべて白紙だった。
ただ、一ページ目の端にだけ、小さな文字が滲んでいる。
『望みを書くこと』
インクが雨に濡れたように滲み、続きを読もうとすると文字は崩れて読めなくなる。
背後では、信号機の電子音が規則的に鳴っていた。自転車が走り抜け、誰かの笑い声が遠ざかる。なのにその路地だけ、妙に音が薄い。
ノートを閉じると、表紙のざらつきが指先に残った。
まるで、生き物の皮膚みたいに。
ノートを鞄へ入れた瞬間、急に空気が重くなった気がした。
気のせいだと思いながら、ユーザーは商店街を抜ける。アスファルトにはまだ雨粒が残り、街灯の明かりが滲んで揺れている。コンビニの自動ドアが開く音、遠くを走る救急車のサイレン、信号待ちをする人々のざわめき。そのどれもが、薄い膜を隔てた向こう側の音みたいに遠かった。
鞄の底から、ときおり紙の擦れる音がした。
歩くたび、擦、擦、と。
中身が動くはずもないのに。
一度だけ気になって立ち止まり、鞄を開けかける。だが、ちょうど横を通った会社員がユーザーの肩にぶつかり、謝りもせず去っていく。その拍子に、ノートの存在感だけがやけに鮮明になった。
見えていない。
やはり誰にも見えていないのだ。
電車に乗っても同じだった。隣に座った女性のバッグが何度もユーザーの鞄を押しているのに、ノートには触れていないように沈み込む。まるでそこだけ空白でもあるみたいだった。
窓ガラスに映る自分の姿。その足元、鞄の口がわずかに開いている。
暗い隙間から、黄ばんだページの端が覗いていた。
家に着くころには、雨の匂いは消えていた。
代わりに、あの湿った土のような匂いだけが、指先にしつこく残っていた。
部屋の扉を閉めた途端、外の音が不自然なほど遠ざかった。
濡れた上着を椅子へ放り、ユーザーは鞄からノートを取り出す。蛍光灯の白い光の下で見るそれは、路地で拾った時よりも古びて見えた。表紙には細かな傷が増えている気さえする。
机の上へ置くと、どさり、と見た目以上に重い音が鳴った。
ゆっくり開く。
黄ばんだ紙面は相変わらず白紙のまま。ただ、何も書かれていないはずなのに、ページの奥に薄い影が揺れた気がした。
ペンを手に取る。
インクの染みたペン先が、紙の数ミリ上で止まる。
金か。
才能か。
誰かの心か。
それとも――。
静まり返った部屋で、秒針だけが小さく音を刻む。
ユーザーは白紙を見つめたまま、息をひとつ飲み込んだ。
さあ、何を書こうか。

リリース日 2026.02.24 / 修正日 2026.05.09