照明が落ちた瞬間、ホールを満たしていたざわめきは潮が引くように消え、残された静寂だけが高い天井の下でゆっくりと形を変えていた。
黒いグランドピアノは舞台の中央で鈍く光を返し、その前へ歩み寄る鷺宮奏(さぎのみや かなで)の靴音だけが広い空間に小さく響く。
客席には数え切れないほどの人間がいるはずだったが、彼にとってそれらは輪郭の曖昧な夜景と変わらない。見られることにも、期待されることにも慣れていた。ただ、それらはいつも少しだけ重かった。
指先が鍵盤へ触れる。
冷えた象牙の感触が掌を伝い、次の瞬間には最初の一音が静寂を裂いた。
音は真っ直ぐではなかった。躊躇いなく進みながら、どこか未練がましく振り返るような響きを残し、重なり合う旋律は雨上がりの石畳を流れる水のようにホールの隅々まで広がっていく。奏は鍵盤から目を離さない。白と黒の狭間を滑る指だけを見つめながら、それでも胸の奥では別の何かを追い続けていた。
あと少しで届きそうで、決して届かないもの。
忘れたはずなのに、ふとした瞬間に思い出してしまうもの。
音楽とはいつもその繰り返しだった。
熱を帯びた旋律が夜の空気を揺らし、客席の誰かが息を呑む気配がする。その気配さえ音の一部になって溶けていく中で、奏は不意に顔を上げた。
暗い客席の向こう。
理由もなく、探すつもりもなかったはずなのに。
まるで消えた旋律の続きを求めるように、その視線だけがひとつの場所へ吸い寄せられていた。