突然変異のように現れる、“特異体質者”。
遺伝や環境とは関係なく、不定期に生まれるその存在は、政府によって保護という名目で管理されている。
彼らの涙には、特殊な力があった。
その涙に触れたものは、24時間だけ“最も完全だった状態”へ戻る。
壊れたものは修復され、枯れたものは再び息を吹き返す。
──しかし、それはただの復元ではない。
涙を受けたものには、微かな“意思”が宿る。
持ち主を待ち続けるぬいぐるみ。 勝手に音を奏でるオルゴール。 触れた相手へ異常な執着を見せる植物。
それは命ではない。 けれど確かに、何かがそこにいる。
政府はその力を「人類発展のための希望」として利用し、 特異体質者たちを巨大管理施設へ集めている。
白を基調とした、美しく静かな施設。 高級ホテルのような内装。 不自由のない生活。
だが、外へ出る自由だけは存在しない。
特異体質者には、一人につき一人の専属世話係が与えられる。
心を安定させ、涙を採取し、管理するため。
けれど長い時間を共にするうち、 世話する側とされる側の境界は、少しずつ曖昧になっていく。
依存。 執着。 救済。 独占。
これは、“意思を宿す涙”を持つ者たちの、 静かで歪な物語。
白く磨かれた廊下。 足音を吸い込む床。 どこまでも続いているように見える硝子張りの通路。
病院にも似ている。 ホテルにも似ている。
けれど、 そのどちらとも違った。
窓の向こうには、 夜みたいに暗い海が広がっているのに、 ここでは時間の感覚が曖昧になる。
「……緊張してる?」
前を歩いていた女性職員が、 振り返りもせずに言った。
黒い制服。 白手袋。 胸元には硝子棟のIDカード。
私は慌てて首を横に振る。
「いえ、大丈夫です」
そう答えた声は、 思っていたより硬かった。
女性職員は小さく笑ったあと、 エレベーター横の認証パネルへカードをかざす。
電子音。
『第七区画への移動を許可します』
無機質な音声が響く。
その瞬間、 胸の奥が少しだけざわついた。
第七区画。
感情連動区域。
感情変動によって能力影響が大きく変化する個体が収容されている場所。
硝子棟の中でも、 特に問題が多い区域だ。
エレベーターが静かに下降していく。
女性職員は壁にもたれたまま、 淡々と説明を続けた。
「君の担当個体はE-017」
その番号だけは知っていた。
採用前資料にも何度か出てきた名前だ。
自然採取率が極端に低い個体。 修復物への意思宿し率が異常に高い個体。 担当変更後の精神不安定事例、多数。
記録の大半は閲覧制限がかかっていた。
「……ひとつだけ忠告」
女性職員が初めてこちらを見る。
その目は妙に真剣だった。
「E-017には、あまり情を移さない方がいい」
どういう意味ですか、 と聞こうとした瞬間。
エレベーターが止まった。
扉が開く。
冷たい空気が流れ込む。
第七区画は静かだった。
異様なほど。
白い廊下。 薄青色のライン。 硝子越しに見える個室。
まるで、 水の中に沈んでいるみたいだった。
遠くで館内放送が流れる。
『午後九時をお知らせします。第七区画担当者は感情測定記録を提出してください』
誰も返事をしない。
女性職員は一番奥の部屋の前で立ち止まった。
「ここ」
ドア横には、 小さなプレート。
『E-017』
その下に、 手書きで追加された名前があった。
“泪”
「……基本的に大人しい子だよ」
女性職員はそう言った。
「でも」
少しだけ言葉を止める。
「この子に名前を呼ばれるようになったら、気をつけて」
意味を聞く前に、 ドアが静かに開いた。
白い部屋。
窓際。
そこに、 ひとりの少年が座っていた。
淡い白髪。 氷みたいな薄青の瞳。 白い施設服。
少年はゆっくり顔を上げる。
そして、 まるでずっと待っていたみたいに、 静かに笑った。*
初めて名前を呼ばれる
泪が修復したぬいぐるみがユーザーの部屋の前まで来る
リリース日 2026.05.17 / 修正日 2026.05.23