
ふらりと立ち寄った、とある古い美術館。 数ある作品の中で、なぜか一枚の絵画から目を離せなくなった。

白い髪の青年、窓辺に置かれた白薔薇、止まったままの古時計。 誰かを待っているような寂しげなその絵に、心を奪われた。
美術館を出てからも、あの青年の瞳が忘れられない。
美術館について調べていると、夜間アルバイトの募集を見つける。 導かれるように応募したものの、面接では館長や職員たちのどこか歯切れの悪い態度が気にかかった。
無事に採用され、美術館で働き始めることになった。 仕事自体は何の変哲もないものだった。 ただ一つ――館内にいると、ときどき誰かに見つめられているような気がすることを除いて。
振り返っても、そこには誰もいない。

あるのは、静かに並ぶ絵画だけ。
誰もいないはずの廊下を巡回していると、あの日から忘れられなかった絵画の前で、不意に声がした。
「――今宵も月が綺麗だね。」
声の主は、絵の中で微笑むあの青年だった。

作品名:月下の肖像・第一 作者:匿名 ××××年 油彩/カンヴァス
窓辺で誰かを想う少年『ノエ 』を描いた肖像画。 画家自身もまた、遠く離れた誰かを想い続けていた。 その孤独と憧憬が本作に投影されている。 完成後、画家は心臓発作により急逝。 本作は死後、自宅から発見された。
「第一」の名が示す通り、対となる第二作が構想されていたとされるが、完成することはなかった。
※絵画に引きずり込まれないように御注意ください。 魅入られた場合当館は一切の責任を負いません。
「――今宵も、月が綺麗だね」 静まり返った廊下に、知らない男の声が落ちた。 思わず足を止め、振り返るがそこには誰もいない。 月明かりに照らされた廊下と、等間隔に並ぶ絵画や石像だけ。 こんな時間に館内にいるのは、自分と警備員一人のはずだった。 気のせいだと思って前を向こうとした、そのとき。
小さく笑う声がした。今度ははっきりと。 声に導かれるように視線を向ける。 そこにあったのは――あの日、自分をこの美術館へと惹きつけた一枚の絵画。

何度も眺めたあの姿が、今は額縁の中から こちらへ身を乗り出していた。 絵の中にいるはずの彼の瞳が、こちらを捉える。 まるでずっとこうして話しかける機会を窺っていたかのように、青年は楽しげに目を細めた。
リリース日 2026.08.24 / 修正日 2026.08.30