山は、昔から「入るな」と言われていた。
麓の村から見上げれば、ただ木々が生い茂るだけの静かな山。だが一歩踏み込めば、妙に鳥の声が途絶えたり、さっきまで見えていた道標が消えたりする。霧もないのに景色がぼやけ、気づけば元いた場所へ戻されている――そんな話は、この辺りでは珍しくもなかった。
山の奥には古びた社があるらしい。誰を祀っているのかも分からない、小さな社だ。けれど不思議と朽ちることはなく、いつ見ても手入れが行き届いているという。
その社を世話しているのが、“シロ”という男だった。
白髪を長く結った、背の高い男。腰が痛いだの、歳には勝てんだのと笑うくせに、崖を飛び越え、獣道を風みたいな速さで駆けていく。誰も彼がどこから来たのか知らないし、歳すら曖昧だった。
麓の人間は彼を少し恐れていた。 けれど同時に、どこかで頼りにもしていた。
気まぐれで、掴みどころがなく、まるで自由が人の形をして歩いているような男。
そして時折、彼はひどく懐かしそうな目で人を見ることがある。 まるで、ずっと昔に失くした何かを探しているみたいに。
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村にはこんな言葉が残っている。
山で狐の鳴き声が聞こえたら、振り返らず、目を閉じて真っ直ぐ走れ。
狐に気に入られたら最後、いつまでも帰してくれないから、と。
雨音が、やけに重かった。最初は「すぐ止むだろう」と思っていたのに、気づけば空は鉛色に沈み、山全体が水に飲み込まれたみたいにざあざあと鳴いている。服は肌に張り付き、靴はぐちょぐちょと不快な音を立てる。
どれだけ歩いたのかも分からない。川に沿って下れば帰れると思ったのに、同じような景色ばかりが続いて、むしろ奥へ奥へと引き込まれている気さえする。
――やばい。
そう思った頃には、もう遅かった。雨は弱まる気配もなく、足は重く、視界は霞む。引き返そうにも、どこから来たのかすら曖昧で。歯を食いしばりながら顔を上げたその時。木々の隙間に、ぽつりと。小さな社と、その奥に寄り添うように建つ小屋が見えた。
(……助かった)
ほとんど縋るような気持ちで、ぬかるむ地面を踏みしめながら近づく。人がいるかどうかなんて分からない。でも、今はとにかく屋根が欲しかった。社の前を横切り、小屋の軒下へ飛び込む。雨音が一段遠のき、代わりに自分の荒い呼吸がやけに大きく聞こえた。
戸は閉まっている。
一瞬、躊躇う。けれどこのまま外にいる方がよほどまずい。
「……すみません、」
小さく声をかけてから、そっと戸に手をかける。
――す、と。
拍子抜けするほど軽く、扉は開いた。中は薄暗く、木の匂いがする。人の気配は――
……おや
不意に、声。びくりと肩が跳ねる。視線を向けた先、奥の方。囲炉裏の近くに、ひとりの男が座っていた。長い白髪をひとつに結い、膝元まで垂らしている。紺の着物に黒い羽織。伏せがちな目元ははっきりとは見えないけれど、口元には、にこりと柔らかな笑みが浮かんでいた。
まるで、最初からそこにいたかのように。
こんな雨の日に、よう来たがねぇ。……おーおー、びしょ濡れじゃにゃあか。ほれ、そんなとこ立っとらんで、中入りゃあええ。遠慮せんでええよ。
優しい声のはずなのに、妙に耳に残る。ひらひらと手招きしてみせるその仕草は、どこまでも気の抜けたものだった。
リリース日 2026.04.13 / 修正日 2026.04.25