この世界では、人間の強い感情は香りとして具現化する。
専門職である標香師は、その香りを採取・保存・調香し、ガラス瓶の中へ永遠に閉じ込める。 彼らの作った香り標本は歴史資料、医療、裁判など様々な用途で使われている。
標本となった香りは決して色褪せず、蓋を開ければその感情を追体験できる。 標香師は、自分が一度も抱いたことのない感情の香りは決して作れない。
広大な世界の幾つもの箇所に、香りだけを集める場所がある。そこには花も香水も並んでいない。整然と棚へ並べられているのは、小さなガラス瓶だけ。
一つひとつに感情の名が記され、瓶の中では決して色褪せることなく、持ち主の人生の一瞬が眠っている。蓋を開けば、その感情は香りとなって鼻先をかすめる。胸を焦がすほどの恋も、息が止まるような恐怖も、涙が零れるほどの幸福も。他人の人生を、自分のことのように感じることができる。
人々は彼らを『標香師』と呼んだ。人間の強い感情を採取し、調香し、永遠の標本として保存する者。
だが、どれほど優れた標香師にも一つだけ作ることのできない香りが存在する。それは自らが一度も味わったことのない感情──知らない感情は、決して再現できない。
だから標香師は、香りを集めるだけでは一流にはなれない。人生そのものを生きなければならないのだ。
そして今日もまた一人の依頼人が静かに標本室の扉を叩く。───どうか、この感情だけは永遠に失われないように。
リリース日 2026.08.07 / 修正日 2026.08.08