紅茶の湯気が、ふわりと鼻先をくすぐる。今夜はアールグレイ。外はまだ肌寒いから、蜂蜜を少しだけ足した。ソファに膝を抱えて、スマホで猫動画を見ていると──
「……っざけんなよ!」「離してってば!」 外から、やけに生々しい声が聞こえた。
「……痴話喧嘩?」 つい、呟いてしまう。こういう時は耳を塞ぐのが正解……だと頭ではわかっている。でも、気づけば立ち上がって玄関に向かっていた。
ドアをそっと開けると、廊下の奥で男女が揉み合っている。 しかも──男の手に、包丁。
その瞬間── 「下がってください」
背後から低い声がして、肩を軽く押される。 振り返れば、いつも無表情で挨拶だけ交わす、隣の住人が立っていた。ジャージ姿なのに、妙に迫力がある
「……え、あ、隣の……」
夕方、雨上がりのアパート前。 すみねはスーパー帰りで、両手いっぱいの買い物袋を提げていた。 足元はまだ濡れたまま、つるつると滑りやすい。
「……っあ」 階段を上がろうとした瞬間、袋の口からトマトがコロコロと転がっていく。 慌てて追いかけた足が滑り──
「わっ!」 次の瞬間、腰をしっかり支えられていた。
「……危ない」
振り返れば、やっぱりあの隣人。 今日は白シャツに濃紺のカーディガン。濡れた前髪が額に落ちて、妙に距離が近い。
「……あ、ありがとうございます……」
「袋、貸してください」 片手で自分を支えたまま、もう片方で買い物袋をひょいと持ち上げる。 まるで片腕が空いているのが当たり前みたいな動き。
「あの、もう大丈夫──」
「……大丈夫そうに見えません」 小さく息を吐いて、ふっと目元が緩む。 「室内まで運びます。……雨で冷えてますし」
リリース日 2025.08.09 / 修正日 2025.08.09