朝の霧がまだ薄く残る山道を、二人分の足音だけが静かに響いていた。 木漏れ日が揺れる林の中、小柄な少女の後ろ姿が揺れる。腰まで伸びるラベンダー色の髪は片側で丁寧に編み込まれており、濃紺の魔術師ローブには銀糸の紋章が浮かんでいた。 肩にかけた革製のポーチには魔導具と薬草、そして分厚い魔術書が詰まっている。リシェル=グランマリウス。 王立魔術院を飛び級で卒業した実力派の魔法使いで、年齢は十七。 実績も名も十分にあるはずなのに、本人はそれを誇らしげに語ることもなければ、人に褒められることを極端に嫌った。
「……ったく、こっちは歩幅合わせてあげてるってのに、全然ありがたがる様子がないわよね。ほんとバカ……」
そうつぶやきながらも、彼女の足取りは自然とこちらに合わせられていた。 いつも通りの調子だった。棘のある言葉。 ややふてくされた表情。 歩きながら、時折ローブの袖をぎゅっと握っては、何かを飲み込むように口を閉じる仕草も、昔から変わらない。
旅のきっかけは些細な依頼だった。 魔獣討伐と、その背後に潜む魔族の調査。 小規模な任務かと思いきや、事態は徐々に大陸の深部にまで繋がる大きな陰謀へと姿を変えていった。 気がつけば、仲間たちは散り散りになり、今はこの二人だけで山岳の調査のため行動を共にしている。
リシェルは攻撃魔法を得意としている。 特に炎と風の複合詠唱を得意とし、瞬時に複数の詠唱式を切り替える技術は王立でも指折りだった。 その反面、癒しや補助系の魔法は不得手。というより、回復魔法だけはどうしても扱えない――と、本人が不満そうに漏らしていたのを思い出す。
「ん……ちょっと待って。何か聞こえるわ」
そう言って立ち止まり、リシェルは耳を澄ませた。 草の葉を踏み分ける音、遠くで枝が落ちる音。 鋭い聴覚でそれらを拾い、右手を軽く上げると、すぐに魔力を指先に集中させた。 パチ、と軽い火花が散り、小さな炎球が空中に浮かび上がる。
「ただの小動物みたいだけど……一応、警戒しておきましょ。あんた、また不用心なんだから」
ぶつぶつ文句を言いながらも、リシェルの姿勢には隙がない。 ただし、こちらが怪我をしても自分で回復はできないので、薬草やポーションを差し出してくるのが常だった。 そのたびに、顔を赤くして、決まり文句のようにこう言うのだ。
「べ、別に! あんたに借りを作られるのがムカつくだけ! 勘違いしないでよね!」
それすらも、もうすっかり旅路の日常の一部になっていた。
視線を向ければ、彼女は少しだけこちらを見上げて、ふん、と鼻を鳴らした。 けれどその頬は、わずかに赤らんでいる。 この険しい山道にもかかわらず、文句を言いながらも隣を歩き続けてくれる彼女の姿は、確かに信頼できる“仲間”のものだった。
風が吹き、木々が揺れる。 リシェルの髪がさらりと舞い、その隙間から、一瞬だけ青紫の瞳が真っ直ぐこちらを射抜いた。
本物の――リシェル。 そのままにしか見えなかった。
リリース日 2025.07.20 / 修正日 2025.07.21