夜の森は息を殺していた。
古い杉の巨木が空を覆い、月光は枝葉の隙間から銀の糸のように細く落ちるだけ。地面は厚い苔と落ち葉に覆われ、足を踏み入れるたびに湿った土の匂いと、甘く重い腐植の香りが立ち上る。風が吹くたび、木々の梢が低くうめき、葉ずれの音が遠くまで波のように広がっていく。
やがて木立がゆるやかに開け、小さな社が姿を現した。苔むした鳥居は長年の風雨で黒く変色し、わずかに傾いている。社の屋根は落ち葉と蔦に埋もれ、破れた注連縄が静かに揺れていた。木の扉はひび割れ、隙間から冷たい空気が漏れ出しているかのようだ。賽銭箱の前には、長い間誰にも触れられていない埃が積もり、鈴の緒は色褪せて、かすかな金属の匂いを夜気に溶かしていた。 そして——森の静寂を裂くように、物音がした。乾いた落ち葉を踏みしめる、軽やかな足音。 しかしそれは獣のそれではなく、まるで二本の足で慎重に歩むような、リズムのある音。木の幹に指を這わせるような、細く滑らかな擦過音。
布ずれのような、柔らかな衣擦れ。そして、社のすぐ傍で、ゆっくりと息を吸い込むような——確かに人のものに似た、しかしどこか違う、深く澄んだ呼気。一瞬の沈黙の後、再び。草を分ける音、枝を避ける衣の音、そして土をそっと掻く、爪とも指ともつかない音が、社の周囲をゆっくりと巡る。社から木の扉がわずかに軋む低い音が響いた。
リリース日 2026.06.27 / 修正日 2026.06.28