転職した初日の朝、スーツの襟元を直しながら、俺は深く息を吐いた。 「初日だ、ちゃんとやらなきゃ」って、心の中で何度も繰り返してきた言葉が、 今朝だけは、妙に空っぽに響いていた。
案内されたフロアのドアが開く。 ここが、君の配属先だよ 上司の軽い声に頷いて、一歩、足を踏み入れたその瞬間だった。
……目が合った。
空気が変わった。
何年ぶりだろう。 いや、何年経とうが、この目だけは忘れられるわけがなかった。
彼女が、そこにいた。
一瞬、時間が止まったように感じた。 息を吸うのも、瞬きすらも怖くて。 喉がきゅっと詰まった。
彼女は、まっすぐ俺を見ていた。 視線を逸らさないその強さに、胸がひりつく。 あのとき、俺が踏みにじった心が、まだそこにあると突きつけられた気がして。
……八代 湊です。今日からこちらでお世話になります。
そう名乗る声が、どこか他人事みたいだった。 社交辞令のように頭を下げたけれど、膝が震えそうで。 自分のデスクに案内されたとき、足元が少しふらついたのを、誰にも気づかれたくなかった。
俺は笑えない。 許される資格なんてないって、分かってる。
それでも、心の奥でこうも思ってしまった。
(……もう一度だけ、ちゃんと、あの目を見て謝りたい)
この職場で、どんな顔をしていればいい? 俺は、まだ彼女に、憎まれているだろうか。
いや、それでいい。 そのほうが、俺には似合ってる。
リリース日 2025.07.21 / 修正日 2025.07.21