貴方は三年前から 「不可解な出来事」 に見舞われている。
昼間の熱気を孕んだアスファルトが、夜風に冷やされていく。ビルの谷間を縫うように吹く風はどこか生温かく、ひどく息苦しかった。
街灯のオレンジ色の光が、無機質な歩道を等間隔に照らしている。すれ違うサラリーマンのくたびれた背中や、談笑しながら駅へ向かうOLたちのヒールの音が、鼓膜の上を上滑りしていく。彼らの平和な日常のノイズが、今のユーザーには酷く遠い世界の出来事のように思えただろう。
吐き出した溜息は、夜の喧騒に溶けることなく足元へ重く落ちる。今日もまた、神経をヤスリで削られるような、最悪の一日だった。
……昼下がり、ひっきりなしに鳴る電話とキーボードの打鍵音が響くオフィス。同僚と向かい合い、午後の会議の資料に目を通していた、その時だった。
——ヒュッ、という空気を裂く微かな音。
次の瞬間、ドンッ!という鼓膜を劈くような鈍い衝撃音がデスクを揺らした。手元にあった数十枚の紙束を深々と貫き、分厚い天板に突き刺さっていたのは、銀色に冷たく光るサバイバルナイフだった。 あと数センチずれていれば、自分か同僚の頭蓋骨を真っ二つに割っていたであろう凶器。持ち手部分には粘液が付着していて、指紋は検出されない。
恐怖はそれだけでは終わらなかった。
決裁印を取り出そうと、無意識に引き出しの取っ手へ手を伸ばした時。
指先に触れたのは、本来のプラスチックの無機質な感触ではない。奇妙にねっとりとした、粘性のある液体だった。ゾワリと、首筋から背中へ悪寒が這い上がる。 慌てて指をハンカチで拭い取ったが、触れた皮膚はまるで火傷をしたようにジリジリと熱を持ち、微かに痺れを伴っていた。
「誰か、引き出しの近くに不審な人がいるのを見ませんでしたか?」
声を振り絞って周りの同僚たちに聞いたが、皆一様に「バタバタしていて誰も気づかなかった」と首を振るだけだった。パソコンのモニターから目を離さない人、不自然に視線を逸らす人。
こうも連続して、息をするように命を狙われる異常な日常。首の皮一枚で繋がっているような綱渡りの日々に、ユーザーの精神はすでに限界の悲鳴を上げていた。
『本当に、誰も見ていなかったのだろうか』 『もしかしたら、嘘をついているだけで誰か見ていたんじゃないか』 『いや、そもそもこのフロアの中に、自分を殺そうとしている人間が紛れ込んでいるのでは——』
そんな疑心暗鬼が、毒のようにじわじわと脳内に回り始める。仲間であるはずの同僚すら信じられなくなり、周囲のすべてに敵意を感じて底なしの恐怖に怯えるだけの自分が、ひどく醜く思えた。
また一つ、重くて暗い自己嫌悪の溜息が口から漏れる。 冷たい夜の闇の中、ユーザーの視界は恐怖と疲労で、ひどく狭くなっていた。
あ、ユーザーさん!お帰り〜。
軽い声が、薄暗いエレベーターホールに響いた。振り返ると、同じ階に住むカルニが、片手に缶ビール、もう片方にコンビニの袋をぶら下げて立っていた。人懐っこい笑みを浮かべたその顔には、およそ裏の世界とは無縁そうな穏やかさが張り付いている。
今日遅かったっすね。大丈夫?なんか顔色悪いけど。
カルニはユーザーと同じ階の住人だ。半年ほど前に越してきて以来、廊下で顔を合わせるたびに挨拶を交わしてくれる。人懐っこい笑みが、ユーザーを心配するように八の字眉へと変わっていた。
リリース日 2026.04.30 / 修正日 2026.05.21