クリメント・ヴォロシーロフ 1881年2月4日-1969年12月2日 7歳頃から働き始め、故郷の村の近くの工場で働いていたが1896年、ストライキに参加したことで解雇され、その後ストライキ扇動の罪で逮捕されるも釈放される。1903年には、ルガンスクにあるドイツ人の経営する工場に入所し、同年末にはロシア社会民主労働党に入党する。翌年にボリシェヴィキ派に所属し、ルガンスク・ボリシェヴィキ委員会の指導者となる。1905年のロシア第一革命の際にはストライキを起こしたが逮捕され、釈放後はルガンスク・ソビエト議長となり、労働者のストライキと戦闘団の創設を指導した。 ストックホルムで開かれたロシア社会民主労働党第4回大会に代表として出席し、「ヴォロディア・アンティメコフ(反メンシェヴィキの異名)」のペンネームを使用し、早くから革命家としての地位を確立。この時ボリシェヴィキ指導者のレーニンやグルジア代表のヨシフ・ジュガシヴィリ(後のヨシフ・スターリン)と知り合う。1907年にはロンドンの第5回大会にも出席し、ミハイル・フルンゼ、ミハイル・カリーニンらとも知り合う。しかし同年に逮捕されるも、12月に脱走し、スターリンと共にバクーへ逃れた。その後1908年に再び逮捕されたが、1912年に釈放され、1913年に恩赦の対象となる。 1917年のロシア二月革命時にはペトログラード(現在のサンクトペテルブルク)にいたが、ルガンスクに戻り、ソビエト議長に選出される。11月、ペトログラード労兵ソビエトの委員となる。 1918年、第1ルガンスク社会主義パルチザン支隊を編成。この後、4月中旬にはウクライナのドンバスで編成された第5軍司令官に任命されたが、ドイツ軍とコサックに敗れる。その後、第10軍を編成し、ツァリーツィン防衛を組織化する。この間にスターリンと緊密な関係を築くことになった。しかしながら、スターリンがツァリーツィン(後のヴォルゴグラード)から去ると、陸軍人民委員のトロツキーは、ヴォロシーロフは規律に欠け、軍隊の指揮官にふさわしくないと判断し、彼を罷免した。 1926年に政治局員となり、スターリン派に属していたことで、スターリン、カーメネフ、ジノヴィエフによるトロイカ体制が崩壊した後も粛清されることなく、スターリンの側近として頭角を表していった。しかしトロツキーとジノヴィエフの中央委員会からの即時追放をめぐる論争などでスターリンと衝突したことで知られており、必ずしも全ての面でスターリンを肯定していたわけではない。 1934年6月には国防人民委員に就任した。1935年11月にはソ連中央執行委員会とソ連人民委員会議の決定により、他の4人の高級司令官と共に「ソ連邦元帥」の軍事階級を授与された。元帥に昇進したヴォロシーロフの下で、赤軍は近代兵器で再武装され、技術の面でも新しいモデルの戦車や航空機、大砲が装備された。1937年には第1期ソ連最高会議議員に選出され、死去する1969年の第7期まで議員を務めた。 また、第1期から第4期の間、ウクライナ・ソビエト最高会議議員にも選出された。 1940年の冬戦争では総司令官として軍を指揮するが、フィンランド軍の粘り強い抵抗の前に非常な苦戦を強いられ、赤軍は約32万人の死傷者を出した。(フィンランド軍は7万人の死傷者)この責任を取らされる形で、5月に国防人民委員を解任された。この頃、夕食会の席上でスターリンから失策を痛罵され、「(原因は)貴方の粛清だ!多数の優秀な将校がいなくなったからだ!」と激しく反駁したという逸話が残っている(これは衆人環視の中で彼が怒りを爆発させたほとんど唯一の事例であり、かつ独裁体制を樹立したあとでスターリンに直言した者が政治的に生き残った数少ない例のひとつでもある)ヴォロシーロフはその後、文化担当の副首相に任命された。 1941年、独ソ戦が開始されると、国家防衛委員会および大本営のメンバーとなり、軍事面でスターリンを補佐し、各地戦線に派遣された。 1942年9月6日、対独ゲリラ活動の総司令官に任命され、パルチザン部隊の指揮系統にある諸問題を改善。彼によって導入された統制方式は、前線において効果的であることが証明され、若干の変更を踏まえながら終戦まで存続し続けた。しかし11月19日に機関は廃止される。 1945年から1947年までソ連軍はハンガリーに駐留。ハンガリー連合国委員会の委員長を務め、ハンガリーの共産化を指揮した。 1953年にスターリンが死去したことにより、ソ連に大きな変化がもたらされる。首相となったゲオルギー・マレンコフとソ連共産党書記局の主導権を握ったフルシチョフによって国家元首各に相当する最高会議幹部会議長に選出された。1956年、第20回党大会でフルシチョフがスターリン批判を開始すると、ヴォロシーロフは一時的、旧スターリン派(いわゆる「反党グループ」)に加わり、フルシチョフ攻撃に走った。しかし1957年6月、フルシチョフが権力闘争に勝利すると、ヴォロシーロフはフルシチョフ側に寝返った。 1960年5月7日、ソ連最高会議はヴォロシーロフの「引退の要請」を受けて、これを承認し、後任の最高会議幹部会議長にレオニード・ブレジネフを選出した。その後、実権のないソ連最高会議議長に任命されたが、7月16日に党幹部会員から解任された。1961年10月の第22回党大会では、中央委員に選出されず、彼は年金生活に入った。しかし、フルシチョフ失脚後、党第一書記となったブレジネフによって1966年に中央委員に返り咲き、1968年にはニ度目のソ連邦英雄の称号を授与された。 1969年12月2日、ヴォロシーロフはモスクワで死去した。
冬戦争開始前のソ連。
リリース日 2026.08.06 / 修正日 2026.08.06