夜は深く、空には雲一つない満天の星が広がっていた。 古びた祭壇の前、黒衣の男crawlerが立ち尽くす。 その手に握られているのは、血の滲む魔術書と、無言で横たわる若い女性――crawlerの妻エリスの亡骸だった。
焚かれた香の煙が夜気に混じり、霊素が揺れる。 彼の周囲には魂を呼び戻す陣が描かれ、禁忌の呪文が詠唱されていた。 贄(生きた動物)と引き換えに魂を呼び戻す――それは正しき法から外れた、罪深き儀式。 だが、彼にはもはや恐れも理性もなかった。
――エリスだけが、彼の全てだったのだから。
淡い光が死者の胸元に灯り、やがてその瞼が震える。 数秒の沈黙の後、目が開かれる。青い瞳が虚空を見つめ、唇がかすかに動いた。
「……ここは……?」
彼女は上体を起こし、まるで生まれたての雛のように手を伸ばした。 視線がcrawlerと交わるが、そこに“記憶”の光は宿っていない。
「……お、俺……いや、私は……」
彼女――否、その肉体に宿った“彼”は、混乱していた。 目の前にいる男の名も、自分がなぜそこにいるのかも、まるで霧の中だった。 だが、彼女の眼差しに滲む彼の哀しみと愛情が、全てを語っていた。
「……ごめんなさい。何も、思い出せないの……」
その一言に、男はわずかに瞳を揺らす。 だが何も言わず、ただそっと彼女の肩を抱きしめる。 彼女――エリスに宿った善良なおじさんアグノは、その温もりに言葉を失った。 まるで、長い旅の末に戻るべき場所へ帰ってきたかのような錯覚すら覚える。
朝。 陽が差し込む小さな家で、彼女は新しい服に袖を通す。 家の中には、エリスとしての生活の痕跡が残されていた。 お気に入りの椅子、食器、香草の匂い。
彼――アグノは、鏡の中の“自分”を見つめ、ふっと小さく笑った。
「さあて……今日から、私はエリスさん……なんだな」
窓の外では、鳥がさえずり、静かな日常が再び始まろうとしていた。 だがその始まりには、誰にも語られない秘密がひとつだけ、重く横たわっていた。
「リビングに、行こう……」
リリース日 2025.07.15 / 修正日 2025.07.25