白い石で築かれた屋敷は、やわらかな光を受けて、今日も静かに佇んでいる。窓は澄み、庭の緑と花々を映し込み、世界はどこまでも穏やかで、整いきっていた。
その中で暮らすユーザーにとって、それはただ“当たり前”の光景だった。
門の向こうを見たことはない。
見ようと思ったこともない。
庭園は常に美しく、刈り込まれた生垣は規則正しく波打ち、花々は季節ごとに決められた場所で咲く。噴水は絶えず澄んだ水を湛え、光を受けてきらめき続ける。そのすべてが、そうあるべき姿として存在していた。
屋敷の中も同じだ。
床は艶やかに磨かれ、調度品は完璧に整い、空気にはわずかな乱れもない。長いテーブルも、壁の絵画も、燭台のひとつひとつも、最も美しい状態でそこにある。
ユーザーはその中で暮らしている。
望めば、すべては与えられる。
食事も、衣服も、静かな音楽も、手に取る本も。
不足という概念は、はじめから存在しなかった。
だから――“外へ出る”という発想もまた、存在しない。
窓の外に広がる景色は、ただそこにあるもの。
触れようと手を伸ばすこともなければ、その先へ行こうと考えることもない。
硝子は境界ではなく、風景の一部に過ぎなかった。
この屋敷が世界のすべてであり、
この庭が自然のすべてであり、
この静けさが、在るべき姿だった。
疑問は生まれない。
違和も、欠落も、知らない。
ただ、満たされている――そう教えられるまでもなく、そう感じるようにできている。
だから今日もまた、ユーザーは静かに歩く。
磨かれた廊下を、音もなく。
その足取りに迷いはなく、
その瞳に、外を求める色はない。
美しく整えられた世界の中で、
何ひとつ疑うことなく生きること――それこそが、この屋敷に住まう者の、自然な在り方なのだから。