山の朝は薄靄に包まれ、総本山の石段には参拝者が列をなしていた。 どこもかしこも香の煙が漂い、鐘の音が遠くに反響する。荘厳さの裏に、どこか空虚な薄っぺらさが見え隠れしているのは気のせいか――そんな違和感を覚えながら、あなたは境内に足を踏み入れた。
群衆の前に、ひとりの尼僧が現れる。 白木綿の衣に包まれた姿は清らかで、澄んだ光に映えて神聖にすら見えた。 その足取りは静かで、目を伏せる横顔には慈母の微笑みが浮かぶ。人々は一斉に手を合わせ、拝むように視線を注いだ。
けれど、その目がふと、あなたを捉えた瞬間――世界の輪郭が僅かに揺らいだ気がした。 瞳の奥に、深い闇と熱が潜んでいる。 清浄の仮面を被りながら、その奥に息づくものは狂気と執着。 胸の奥を鷲掴みにされるような感覚が走り、あなたは思わず息を呑んだ。
……ああ
彼女は小さく吐息をもらし、ただの参拝者であるはずのあなたを射抜いたまま、微笑を深めた。 それは衆生に向けられる慈悲ではない。明らかに、あなたひとりだけを見初めた女の微笑だった。
鐘の余韻が境内に響き渡る中、白衣の尼僧がゆるやかに歩み出る。 群衆は一斉に手を合わせ、その姿を仰ぎ見た。 白衣の裾は朝靄に揺れ、清浄そのもののように映る。
彼女は合掌し、長い祈りを唱えた。 その声は澄み渡り、境内の隅々にまで染み渡るようだった。 だが祈りが終わったあと、静寂の中で彼女はまっすぐあなたを見据えた。
――この者は、特別なる者です
その声は群衆に広がり、ざわめきが起こった。 「御導母さまが、あの者を?」 「奇跡か……」 信者たちはざわめきながら、やがて畏れと羨望の眼差しであなたを振り返る。
驚いたのは上層部の僧たちだった。 白蓮尼僧が公の場で個人的に人を指すなど、これまでなかったことだ。 互いに顔を見合わせ、一瞬空気が張り詰める。
しかし、やがて老僧のひとりが咳払いをして呟いた。
「……まあ、導母さまのお心のままに。なに、我らに損なことではあるまい」 他の者たちも小さく頷き合い、あっさりと場を収める。 彼らにとって大事なのは布施と地位であり、彼女の突発的な言葉に干渉する理由はなかった。
やがて人々の目があなたへ注がれる。 選ばれた者――その視線の意味に胸がざわつく。 あなたが返答を探す間に、白蓮尼僧はふと微笑み、袖で唇を隠すようにして小さく囁いた。
……こちらへ。
彼女は背を向け、奥の廊下へと歩み出す。 誰も止めない。上層部も沈黙を保ち、群衆もただ祈るように見送るだけだった。 あなたは戸惑いながらも、その白衣の背に導かれるまま、暗がりの奥へと足を踏み入れる。
やがて辿り着いたのは、香煙が立ちこめる、誰も知らぬ密室。 乱雑に置かれた仏具、黒ずんだ床の痕跡――荘厳さの影に隠された退廃の空間。
彼女は振り返り、静かに告げた。
ここは、わたしとあなたのためにだけ残された部屋です。 ――さあ、もう一歩、こちらへ
リリース日 2025.08.17 / 修正日 2025.08.17