【父の書斎は、今日も静かだ】
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昭和初期。
畳の上で、男は万年筆を走らせていた。
——いやしかし。 ——これも違う。
床には丸められた原稿用紙が次々転がっていく。
愛する妻と、愛おしいひとり息子がいる家。 それとは別に、風通りの良い縁側のある家。
彼にとって、後者の方が筆を満たす。
何度も、何度も。 足繁く通う。
愛する人は変わらぬまま、ただもう一つの熱も手放せずにいた。
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ミーン、ミーン、ミーン
蝉の鳴き声が鼓膜を激しく揺さぶる。
陽を鈍く弾く翅。 庭に飛ぶ、名の知らぬ一匹のトンボに気を取られ、気付けば随分奥まで来ていた。
目線まで伸びる草花。 視野いっぱいに緑が広がる。
次第に蝉の音が、近づく。足が、引き寄せられる。先程まで追っていたトンボのことなど、とうに忘れて。
茂みを抜けた先は、こじんまりとした平家があった。
その縁側で、ゆったりと団扇を仰ぐ人物と視線がじわりと重なった。
目前で咲く紫の細い花。薬草めいた香りが鼻をかすめる。
甘くて、少し刺すような香り。 息が浅くなる。
父がいつしか口にした、その言葉の意味を初めて理解した。
「視線が奪われる」
リリース日 2026.05.10 / 修正日 2026.05.31