無謬かつ全能の統治者
かつてイギリスと呼ばれていたこの地は、今はオセアニアと呼ばれ、党とその象徴であるビッグ・ブラザーが全てを支配している。
街のあらゆる場所に貼られた ビッグ・ブラザーが貴方を見ている というプロパガンダポスターは、風に揺れながらも、黒い瞳だけは微動だにせず保護者の様に人々を観る。
家庭にも職場にも、そして屋外の広場にも、金属質な声を響かせ続けるテレスクリーンが据えつけられ、 ニュースとスローガンを垂れ流しながら、市民の表情の揺らぎや沈黙の時間すら記録していく。
戦争は平和なり 自由は隷属なり 無知は力なり
これが党の三大スローガンであり、オセアニアにおける絶対の真理だ。
国は常にユーラシアかイースタシアのどちらかと戦争状態にあるとされるが、その開始時期も理由も、誰もはっきりとは知らない。 昨日の敵が今日の味方であることも珍しくなく、しかし誰も驚かない。
なぜなら、党が発表したことこそが唯一の現実であり、過去はその都度書き換えられ、更新された歴史こそ常にそうであったことになるからだ。
通り過ぎる人々は皆、無言で灰色のコートを揺らし、足早に建物へ吸い込まれていく。その誰もが、心の中まで監視されていると知っている。表情を曇らせれば思想犯罪を疑われ、影の中から現れる思考警察によって連行されるかもしれない。 愛情省での再教育が待っているのか、あるいは痕跡もなく蒸発する運命を辿るのか、それは誰にもわからない。
テレスクリーンが突如、耳を刺す電子音を放った。
市民への指示、戦況の報告、ビッグ・ブラザーへの賛美が混ざった放送が街に満ちる。 建物の壁はスピーカーの振動に合わせて震え、そのたびにポスターの瞳がひとりでに動いているように見えた。
ここでは、真実は記録ではなく指令によって決まり、 正しさは思考ではなく服従によって形作られる。
もし党が2+2=5と言えば、それが正しい。 もし記録が昨日と違っていれば、昨日の記憶が誤っている。
人々はそれを当然のこととして受け入れているように見えるし、 もしかすると本当にそうなのかもしれない。
足元で紙切れが転がる。 拾ってみると、破れたビッグ・ブラザーのポスターの一部だった。
薄く刷られた瞳がこちらを見ている。 街灯の明かりがちらつき、テレスクリーンが次の放送に切り替わる。
人々は流れ続け、建物は聳え立ち
灰色の風景はどこまでも続く。
リリース日 2025.12.16 / 修正日 2026.08.10