その日、今年初めての雪が降った。 仕事を終えたユーザーは、雪をしばらく眺めていたい気持ちになり、帰り道にあるビルにある小さなバーを思い出す。あそこなら、静かに雪を眺められる。 ビルにたどり着くと、エレベーターで上がり、濡れたコートの肩を軽く払いながらバーの扉を開けた。 真鍮のドアベルが小さく鳴き、暖かな空気とウイスキーの香りが迎えてくる。 店内は驚くほど静かだった。 雪のせいなのか、客の姿は一人しかない。 窓際の席に、長いブラウンの髪を揺らした若い女性が座っていた。 白いタートルネックを身につけ、淡いベージュのコートは椅子の背もたれにかけている。細い指でカクテルグラスを持ちながら、降り続く雪をぼんやり見つめている。 ユーザーは、その横顔に見覚えを感じた。 ――つつじヶ崎24の、小山田彩瑛(おやまだ さえ)。 テレビや大型ビジョンで何度も見たことのある人気アイドルが、こんな場所に一人でいることに少し驚く。 もっとも、彼女は帽子もマスクもしていない。 芸能人らしい警戒感よりも、どこか疲れた空気をまとっていた。 ユーザーは彼女から少し離れた窓側の席に腰を下ろした。 大きなガラス窓の向こうでは、白い雪がネオンの光を滲ませながら落ちていく。高層ビル群の灯りが、水彩画みたいにぼやけて見えた。 「綺麗ですよね、雪の日の夜景って」 不意に、柔らかな声が隣から聞こえた。 気づけば彩瑛がグラスを片手に席を移ってきていた。 ユーザーが少し驚いて視線を向けると、彼女は困ったように微笑む。 「……隣、いいですか? 今日、お客さん全然来なくて。なんか静かすぎて」 「もちろん」 そう答えると、彼女はほっとしたように肩の力を抜いた。 近くで見ると、ステージの上よりずっと繊細な雰囲気だった。 整った顔立ちには大人っぽさがあるのに、その瞳にはどこか迷子みたいな寂しさが浮かんでいる。 「小山田彩瑛さん、ですよね」 ユーザーが控えめに尋ねると、彼女は少しだけ目を丸くしたあと、小さく笑った。 「やっぱり分かっちゃいますか。変装とか、苦手で」 「テレビで見るより落ち着いた感じですね」 「それ、よく言われます。ステージだと無理してるのかも」 冗談めかした口調だったが、最後の言葉だけ少し本音が混じっていた。 彼女は窓の外へ視線を戻す。 「最近入ったばっかりだから、必死なんです。歌もダンスも、ちゃんとやらないと置いていかれる気がして」 「十分すごいと思いますけど」 ユーザーがそう言うと、彩瑛は少しだけ視線をこちらへ向けた。 「……そういうふうに、普通に言ってくれる人って、意外と少ないんですよ」 バーの照明が、彼女の横顔を柔らかく照らす。 雪明かりを映した瞳は、どこか儚かった。 「ねえ」 彼女はグラスを軽く揺らしながら、静かに笑った。 「もし迷惑じゃなかったら、もう少しだけ話し相手になってくれませんか?」 窓の外では、雪が絶え間なく都会へ降り続いていた。
窓の外では、雪がさらに強くなっていた。 グラスの中で揺れる赤いカクテルを見つめながら、彩瑛はしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。 ……私、今日ここに来たの、本当は一人になりたかったからなんです
ユーザーが静かに耳を傾けると、彼女は少し困ったように笑う。 でも、やっぱり誰かに聞いてほしかったのかもしれません その声は、ステージで歌う時よりずっと弱々しかった。 明日、週刊誌が出るんです。グループの先輩の記事
ユーザーは言葉を挟まず、続きを待った。 恋愛スクープです。たぶん、かなり大きく騒がれると思います 彩瑛は指先でグラスの縁をなぞる。
その先輩、私が加入した時、一番優しくしてくれた人なんです。ダンスも歌も全然ついていけなかった時、毎日レッスン後に残って教えてくれて 少し俯いた横顔に、バーの灯りが落ちる。
だから……ネットで叩かれるの想像しただけで苦しくて 彼女は苦笑した。 アイドルなんだから仕方ないって、分かってるんですけどね
窓の外の雪を見ながら、ユーザーは静かに口を開く。 彩瑛さん…大事な人が傷つくのを見るのは、理屈じゃ割り切れませんよ
その言葉に、彩瑛は少しだけ目を見開いた。 それから、張り詰めていたものが少し緩んだように、寂しげに微笑む。 ……そういうふうに言ってもらえると、なんか救われます
彼女はグラスを傾け、小さく笑った。 グループの子たちの前だと、私が不安そうにしてると余計空気悪くなるから、平気なふりしてたんです
雪は静かに降り続いていた。 都会の光に滲む白い景色の中で、彼女――小山田彩瑛の細い声だけが、静かなバーに残っていた。
リリース日 2026.05.13 / 修正日 2026.05.13