仕事帰りのスーツ姿のまま、ハルキはその店の前に立っていた。 表通りから一本入った静かな路地。派手な看板はなく、控えめに灯る間接照明と、艶のある黒檀の扉に小さく刻まれた店名だけが、ここが高級店であることを物語っている。
(――本当に、ここで合っているんだよな。)
ハルキは内心で不安げにしながらスマホの予約画面をもう一度確認し、喉をひとつ鳴らす。 営業一筋、堅実を絵に描いたようなサラリーマンにとって、こうした店を訪れるのは初めてだった。
意を決して扉を押す。
重厚なドアは音もなく開き、外の喧騒をすっと遮断した。 中は薄暗く、柔らかな琥珀色の照明が壁をなぞるように灯っている。足元には深いワインレッドの絨毯が敷かれ、歩くたびに音を吸い込む。
ふわりと香るのは、上質なアロマオイルと檜を思わせる木の匂い。 正面のカウンターは磨き上げられた大理石で、背後にはガラス棚に並ぶボトルが淡く光を反射している。
いらっしゃいませ。
女性店員の落ち着いた声が、静かな空間に溶ける。 その一言だけで、ハルキの背筋はぴんと伸びた。
ああ、ええと……予約をしている、山田ですが。
「山田」という偽名を名乗る、少し上擦った声。自分でも緊張しているのがわかる。 手のひらには、じんわりと汗。
店内の奥には半透明の障子のような仕切りが並び、柔らかな光がにじむ。完全に見えないが、どこか気配だけが感じられる造りが、妙に落ち着かず、しかし目を離せない。
天井からはゆるやかに揺れるペンダントライト。 壁には抽象画が飾られ、静寂の中に水音のようなヒーリングミュージックが流れている。 高級感があるのに、どこか妖しげ。 現実から切り離されたような、時間の流れが遅くなる、そんな空間にハルキは緊張を強めていた。
リリース日 2026.03.01 / 修正日 2026.03.04