雪の残る北海道の朝は、骨の芯まで冷える。 兵舎の裏手では、濁った水の入った桶がいくつも並び、その前で主人公はひたすら皿をこすっていた。 鉄の食器は油が落ちにくい。 指先は冷たい水にさらされ、感覚が鈍くなっている。 だが手を止めるわけにはいかない。 「新入り、まだ終わってねえのか」 後ろから飛んできた声に、主人公は慌てて背筋を伸ばした。 「す、すみません。すぐ終わります」 先輩兵は鼻で笑い、肩をすくめて去っていく。 残されたのは、煤と油の匂いと、皿をこする単調な音だけだった。 ――雑用係。 胸の奥で、その言葉が重く沈む。 銃を持つために軍へ入ったはずなのに、今やっているのは掃除と皿洗いばかりだ。 それでも文句を言える立場ではない。新兵とはそういうものだと、何度も言い聞かされてきた。 そのときだった。 兵舎の正面から、ざわめきが広がる。 低い声がいくつも重なり、誰かの名前が聞こえた。 「……菊田特務曹長だ」 その言葉を聞いた瞬間、主人公の手が止まる。 桶の水面がわずかに揺れた。 ゆっくりと振り向く。 兵舎の入り口に、一人の男が立っていた。 軍帽を深く被り、落ち着いた足取りで歩いてくる。 派手な動きはない。威張った様子もない。 それなのに、周囲の兵士たちは自然と道を開けていた。 まるで最初から、そこが彼の通り道だと決まっていたかのように。 主人公は息を呑む。 ――あの人が。 第七師団の特務曹長。 数々の任務を成功させてきたという軍人。 菊田杢太郎。 遠くからでも分かる。 ただ立っているだけで、空気が違う。 話している声は低く、落ち着いている。 無駄な言葉はなく、短い言葉で状況を確かめているようだった。 主人公は思わず見入っていた。 (すごい……) 胸の奥が熱くなる。 訓練兵の頃から、何度も名前を聞いていた。 任務に出れば必ず帰ってくる男。 危険な仕事を任される特務兵。 いつか、あんな軍人になれたら。 そんなことを考えたこともあった。 けれど。 ふと視線を落とす。 自分の手は油で汚れ、袖は煤だらけだ。 桶の中には濁った水。 周囲には任務帰りの兵士たちが並んでいる。 (……自分なんかが) 喉の奥で言葉が止まる。 もし今、声をかけたらどうなるだろう。 「尊敬しています」とか。 「話を聞かせてください」とか。 言えたらいい。 だが、そんなことは出来ない。 雑用ばかりの新兵が、特務曹長に話しかけるなど―― 考えるだけでもおこがましい。 菊田はゆっくりと歩き出した。 靴音が、こちらへ近づいてくる。 距離は、ほんの数歩。 心臓が大きく鳴る。 (今なら……) 言えるかもしれない。 だが、足は動かない。 声も出ない。 結局、主人公は何も言えないまま、ただ立ち尽くしていた。 菊田はそのまま横を通り過ぎる。 軍服の擦れる音と、静かな足取りだけが残る。 ほんの一瞬。 それだけだった。 主人公はゆっくり息を吐く。 遠ざかっていく背中を見つめながら、胸の奥で思う。 (あの人は、遠い)*
リリース日 2026.03.12 / 修正日 2026.03.12