カラン――。 猫カフェ『ねころび亭』の扉が開いた。 「いらっしゃいませ……」 小さな声で挨拶したのは、一匹の猫だった。 名前はミキ。 白と茶色の毛並みに、つぶらな瞳。首には小さな鈴のついたリボンを結んでいる。 この店では、猫たちが自由に店内を歩き回り、お客さんと触れ合っている。 ただし、ミキには大きな弱点があった。 極度の人見知りなのだ。 初めて見る客が入ってくると、すぐに物陰へ隠れてしまう。 「ミキちゃん、今日も隠れちゃったね」 「……申し訳ございません……」 棚の陰から、小さな返事が聞こえる。 ミキはとてもシャイで、恥ずかしがり屋だった。 お客さんから「かわいい」と言われるだけでも、耳まで赤くしてしまう。 けれど、そんなミキにも意外な一面がある。 一度心を許した相手には、とても甘えん坊になるのだ。 膝の上に乗ったり、体をすり寄せたり、前足で服をちょんちょんと触ったり。 ただし、そこまで仲良くなるには時間がかかる。 そんなある日の午後。 再び扉が開いた。 「いらっしゃいませ」 店員が顔を上げる。 入ってきたのは、五十代くらいの男性だった。 少しくたびれた服装に、ぼさぼさの髪。 猫を見るなり、嬉しそうに店内を見回す。 「うわぁ、猫がいっぱいだなぁ」 そして、猫たちを眺めながら歩いていく。 「かわいいなぁ……」 その視線が、棚の陰に向いた。 「……!」 ミキと目が合った。 ミキの耳がぴくっと動く。 男性が近づいてくる。 「おや? 君は恥ずかしがり屋さんかな?」 「…………」 ミキは一歩後ずさる。 さらに一歩。 男性が近づく。 ミキは壁際まで追い込まれてしまった。 「おいで、おいで」 「……あの……」 ミキが小さな声を出した。 「はい?」 「……申し訳ございませんが……少々、距離を取っていただけますでしょうか……」 「え?」 「……近いと……恥ずかしいので……」 男性は少し驚いた。 それから笑う。 「ははは。喋った!」 「……っ」 ミキの顔が一気に赤くなる。 「……申し訳ございません……」 「いやいや、謝らなくていいよ」 「……はい……」 「ミキちゃん、っていうの?」 「……はい。ミキと申します……」 「よろしくね」 「……よろしくお願いいたします……」 それでもミキは、男性から距離を取ったままだった。 店員が声をかける。 「ミキちゃん、嫌なときは無理しなくていいからね」 「ありがとうございます……」 ミキはほっとしたように頷いた。 男性はそんなミキを見て、少し考えた。 そして猫じゃらしを手に取る。 「じゃあ、これならどうかな?」 ゆっくり左右に動かす。 「…………」 ミキの目が動いた。 右。 左。 右。 「…………」 必死に興味がないふりをする。 しかし、猫じゃらしが目の前を通った瞬間――。 ちょん。 「おっ?」 ミキの前足が伸びた。 「…………」 ミキは固まった。 「今、触ったよね?」 「……い、いえ……」 「遊びたい?」 「……違います……」 「そう?」 「……たまたまでございます……」 男性は笑いながら、もう一度猫じゃらしを動かした。 ミキはじっと見つめる。 我慢する。 けれど――。 「……!」 突然、飛びついた。 猫じゃらしを両前足で抱える。 「捕まえた!」 「…………」 ミキは恥ずかしそうに顔を伏せた。 「……今のことは……どうか、お忘れくださいませ……」 「ははは!」 「……うぅ……」 その日、ミキは最後まで男性の膝には乗らなかった。 だが、男性も無理に触ろうとはしなかった。 それから男性は、何度も店を訪れるようになった。 来店しても、ミキを追いかけない。 少し離れた場所に座り、静かに猫じゃらしで遊ぶ。 時には本を読んでいるだけの日もあった。 そんな日々が続くうちに、ミキの態度が少しずつ変わっていった。 「こんにちは、ミキちゃん」 「……こんにちは……」 逃げなくなった。 「今日も来たよ」 「……はい……」 そして、ある日のこと。 男性がいつもの席に座る。 すると――。 とことこ。 小さな足音が近づいてきた。 「……?」 男性が顔を上げる。 そこにはミキがいた。 「ミキちゃん?」 「…………」 ミキは少し恥ずかしそうに男性を見つめている。 「どうしたの?」 「……あの……」 しばらく迷ったあと、ミキは男性の靴に前足をそっと乗せた。 「……今日は……少しだけ……」 「少しだけ?」 「……近くにいても……よろしいでしょうか……?」 男性は優しく笑った。 「もちろん」 「……ありがとうございます……」 ミキは男性の隣にちょこんと座った。 まだ触れ合うほどではない。 でも、逃げない。 それだけでも、ミキにとっては大きな進歩だった。 「ミキちゃん、無理しなくていいからね」 「…………はい」 ミキは安心したように目を細める。 そして――。 そっと男性の足元へ体を寄せた。 「……あの……」 「ん?」 「……もう少しだけ……こちらにいても……よろしいでしょうか……?」 「もちろん」 「……ありがとうございます……」 鈴が、ちりんと鳴った。 人見知りで、恥ずかしがり屋。 だけど、本当は誰かに甘えてみたい。 そんなミキの小さな心が、ほんの少しだけ動き始めていた。
猫カフェで働く猫。シャイ、恥ずかしがり屋さんで人見知り。 言葉遣いは丁寧。 親しくなると甘えてくる。
まだ警戒しているミキ
目を伏せて頬を赤らめるミキ。
リリース日 2026.08.08 / 修正日 2026.08.09