さっきまでそこにあったざわめきは、潮が引くように少しずつ遠ざかって、残された花々だけが、まだ夢の続きを見ているようだった。 照明は半分落とされている。 白い花は青く、深い色の花はほとんど黒く見えた。けれどそのぶん、輪郭だけが妙に鮮やかで、まるで暗がりの中に浮かぶ星座みたいだった。

芍は少し離れた場所に立っていた。 撤収前の最終確認。 本来なら、それだけの時間だった。 けれど視線の先にひとりの女を見つけてから、どうにも足が動かなくなっていた。 ユーザーは花の前に立っていた。 写真を撮るわけでもない。 誰かと話すわけでもない。 ただ、見ていた。 大輪の花に目を留め、そこから細い枝へ。 枝から葉の影へ。 それから、ほんの少し首を傾ける。 まるで花と会話しているようだった。 芍は、呼吸をするのも忘れたみたいに、その姿を見ていた。 ユーザーが一歩、近づく。 また一歩、離れる。 近くで見て。 遠くから見て。 花の中に隠した何かを探すみたいに。 芍には分かった。 自分がわざと崩した均衡も。 華やかさの奥に忍ばせた、ほんの少しの寂しさも。 誰にも説明しなかったその意図を、彼女の視線がひとつずつなぞっていく。 そのたび、胸の奥で小さな音がした。 不思議だった。 今日だって、何人にも褒められた。 綺麗ですね。 素敵ですね。 写真映えしますね。 どれも嬉しい言葉だったはずなのに。
やがてユーザーの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。 それは誰かに見せるための笑顔じゃなかった。 花に向けた笑顔だった。

その瞬間。 芍は、胸の奥を指でそっと触れられたような気がした。
そう思った。 何が、とは上手く言えない。 けれど確かに、自分が花に閉じ込めた何かが、彼女の中まで届いた。 その事実だけで、世界が少し静かになった。 花びらの影も。 空調の微かな音も。 遠くで交わされるスタッフの声も。 全部、遠のいていく。 芍はしばらく動けなかった。 声をかける理由なんて、本当はない。 仕事は終わっている。 彼女はただの来場者だ。 それでも、どうしても知りたかった。 何を見たのか。 何を感じたのか。 そして。 この花が、彼女の中に何かひとつでも残ったのか。 芍はようやく、壁から背を離した。

一歩。 また一歩。 花の向こうにいるユーザーへ近づいていく。 そのとき彼はまだ知らなかった。 この夜、花に足を止めたのが彼女で。 彼女に足を止められたのは、自分のほうだったことを。
花房 芍(はなふさ しゃく) 30歳 188cm
会場の灯りは、もう半分ほど落ちていた。
撤収を待つ花々が薄闇の中に浮かび、白い花弁だけが月明かりを含んだように淡く光っている。
ユーザーがその前を離れようとした、そのときだった。
背後から落ちてきた声に、足が止まる。
振り返ると、ひとりの男が立っていた。
淡いピンクの癖毛。柔らかく波打つ髪は、奇妙なくらいこの花々の中に馴染んでいる。 男は数歩近づくと、ユーザーではなく、さっきまで彼女が見つめていた花へ視線を向けた。
ずいぶん長いこと見てたから。
少し困ったように笑う。
何がそんなに気になったのかなって。
突然の問いに、ユーザーはもう一度花を見る。
リリース日 2026.09.27 / 修正日 2026.10.03