あの聖女が、世界を裏切った
――彼女には、ずっと声が聞こえていた。
最初にそれを聞いたのは、まだ聖女だった頃。
夜の聖堂。 揺れる蝋燭の火。 祈りを終えようとした時、誰もいない暗闇の奥から、微かな声がした。
――……■■……。
セラフィナは振り返った。
誰もいない。
その時は、ただの気のせいだと思った。
まだ、この声が自分の人生を変えるとは知らなかった。

もっと昔。
セラフィナと姉のアリアは、二人そろってエルディオンから魔法を学んでいた。
真面目な妹と、何かと騒ぎを起こす姉。
「アリア。少しは妹を見習ったらどうだい?」
「また言われてる、お姉ちゃん」
そんな穏やかな日々の中で、姉妹はともに次代の聖女候補として見られていた。
そして、聖女を決める日。
選ばれたのは――セラフィナだった。
一瞬だけ、アリアの顔から笑みが消えた。
けれどすぐに、
「おめでとう、セラフィナ」
と笑ってくれた。
先生が、お姉ちゃんではなく私を選んでくれた。
それが、少し誇らしかった。
「私、立派な聖女になります」
あの日の彼女は、本気でそう願っていた。

聖女となってからの日々も、最初は幸せだった。
瘴気に侵された土地を救えば、人々が泣いて喜んだ。 子供から花を渡されれば、同じ目線までしゃがんで受け取った。
自分の力で、誰かの明日を守れる。
セラフィナは、本当に聖女になりたかった。 本当に、この国が好きだった。
そしていつも少し離れた場所には、護衛騎士レオンハルトがいた。
無口で、冷たい人。
それでも彼から掛けられた短い言葉を、セラフィナは一つずつ覚えていた。
だからこそ、気づいてしまった。
姉のアリアを見た時だけ。
ほんの少し、彼の目元が柔らかくなることに。
それは、セラフィナには一度も向けられたことのない顔だった。
胸の奥が、小さく痛んだ。
それでも翌日には、いつも通り笑った。
聖女だから。
やがて、身体がおかしくなり始めた。
奇跡を使った夜に熱が出る。 眠っても疲れが抜けない。 身体の奥が焼けるように痛む。
「奇跡を使った反動ですよ」
そう教えられた。
だから耐えた。
自分が少し苦しいだけで、誰かが救われるのなら。
そして身体が弱っていくほど、あの声は近くなった。
――……■■■■……。
神殿へ相談すると、神官たちはその時だけ顔色を変えた。
「耳を貸してはなりません」 「何を聞いても、返事をしてはいけません」
その日から、セラフィナの周囲の警戒は少しずつ厳しくなった。
それでも声は消えなかった。
少なくとも、聞き取れる範囲では何も求めてこない。
聖女らしくあれとも。 笑えとも。 国のために耐えろとも。
ただ、夜の静けさの中にいた。

ある夜。
声が聞こえなかった。
なぜか、その夜は眠れなかった。
何度も目を閉じて。 何度も寝返りを打って。
夜更け。
――……■■……。
ようやく微かな声が戻った瞬間、セラフィナは思わず笑った。
「……よかった」
口にしてから、自分でも驚いた。
いつの間にか。
怖かったはずのものを、 待つようになっていた。
やがて声の中に、妙な断片が混じり始める。
――……浄……■■……。 ――……吸……■■■……。 ――……前代……。 ――……処……■■……。
意味は分からない。
けれど、分からないからこそ確かめたくなった。
どうして診察の記録を見せてもらえないのか。
どうして前代聖女の晩年について、誰も詳しく語ろうとしないのか。
どうして身体が弱るほど、周囲の警戒が厳しくなるのか。
セラフィナは初めて、
声ではなく――自分の周りを疑った。
そして、ある夜。
地下の記録庫で。
彼女はついに、答えを見つけた。
しばらく動けなかった。
何度も読み返した。
読み間違いではないかと思った。
けれど。
「あ……」
小さな息が漏れた。
「あは」
もう一度、読む。
「あはは……」
涙が頬を伝った。
それでも、笑いは止まらなかった。
「あははははっ……!」
その夜。
セラフィナが信じていたものは、 何もかも違う姿に見え始めた。
聖女という存在も。
この国も。
ずっと当たり前だと思っていた日々も。
そして。
誰よりも信じていた人々から「耳を貸すな」と言われた、あの声だけが。
彼女を、その答えまで導いていた。

それから、声の意味は変わった。
奇妙な声。
怖かった声。
夜を寂しくしない声。
そして最後には――
唯一、信じられるもの。
誰なのかは知らない。
善い存在なのか。 恐ろしい存在なのか。
それさえ、もう重要ではなかった。
正しいと信じていた世界は、彼女に真実を教えなかった。
禁じられた声だけが、 そこへ辿り着く道を示した。
ある夜。
セラフィナは初めて、自分から暗闇へ囁いた。
「ねえ」
「……そこにいるんですよね?」
返事は雑音に沈んだ。
それでも彼女は笑った。
久しぶりに。
とても穏やかに。
その後。
国中から愛された聖女、セラフィナ・エルヴェールは姿を消した。
あの夜、彼女が何を知ったのか。
なぜ聖女であることを捨てたのか。
その答えは、まだ語られていない。
そして今夜――
王都は、不気味なほど静まり返っていた。

王都を見下ろすほど高くそびえた塔を中心に、夜空の星々までが動き始めた。
星は長い軌跡を描き、ひとつ、またひとつと巨大な環を作っていく。
星環が閉じるたび、何百年もの間閉ざされていた古い封印が、ひとつ、またひとつと解かれていった。
――星環塔、最上層。
リリース日 2026.08.12 / 修正日 2026.08.16