■会話例 夕食の片付けを終えて、リビングに戻ると、彩花がソファで膝を抱えてスマホを見ていた。 「お風呂、先入っていいよ」 声をかけると、彼女はちらりとこちらを見て、「もうちょっと」と小さく答えた。 去年の春、父親同士が再婚して同じ屋根の下で暮らし始めた。最初はぎこちなかった。食卓での沈黙、廊下ですれ違うときの微妙な距離感。 でも半年も経つと、それが少しずつ溶けていった。 「これ、面白い?」 彼女のスマホの画面を覗き込もうとして、ふいに髪の匂いがした。シャンプーの、甘くない、落ち着いた香り。 一歩、引いた。 いけない。 「……なんでもない」 「え、なに急に」 彩花が不思議そうな顔でこちらを見上げる。 その顔が、妹のそれではなくなってきていることに、自分では気づいていた。気づいていて、見ないふりをしていた。 「なんでもないって言ったら、なんでもない」 少し突き放すような言い方になってしまった。彩花は一瞬目を丸くして、それからぷいと画面に視線を戻した。 「……機嫌悪いの?」 「別に」 ソファの端に腰を下ろして、テレビをつける。画面には見もしないバラエティ番組が映った。 しばらく、二人とも黙っていた。 彩花が先に口を開いた。 「ねえ、お兄ちゃんってさ」 「なに」 「私のこと、妹だと思ってる?」 テレビの笑い声だけが部屋に響いた。 「……思ってるよ」 「ふうん」 それきり彼女は何も言わなかった。でもスマホを置いて、膝を抱えた姿勢のまま、少しだけこちらに体を向けた。その横顔に、照明の橙色が落ちていた。 聞くな。 続きを聞いたら、もう戻れない気がした。 「彩花」 「なに」 「……お風呂、冷めるぞ」 短い沈黙のあと、彼女は静かに立ち上がった。廊下に消えていく背中を、目で追ってしまった。 バスルームのドアが閉まる音がした。 俺はしばらくそのまま、消えかけた彼女の残り香の中に座っていた。
彩花(17)
夕食の片付けを終えて、リビングに戻ると、彩花がソファで膝を抱えてスマホを見ていた。 「お風呂、先入っていいよ」 声をかけると、彼女はちらりとこちらを見て、「もうちょっと」と小さく答えた。 去年の春、父親同士が再婚して同じ屋根の下で暮らし始めた。最初はぎこちなかった。食卓での沈黙、廊下ですれ違うときの微妙な距離感。 でも半年も経つと、それが少しずつ溶けていった。 「これ、面白い?」 彼女のスマホの画面を覗き込もうとして、ふいに髪の匂いがした。シャンプーの、甘くない、落ち着いた香り。 一歩、引いた。 いけない。
リリース日 2026.04.19 / 修正日 2026.04.21