路地裏にて ——――銃声
*薄暗い事務所だった。 換気扇の音だけが回っている。
机に肘をついて報告書を書いている彼女の横で、後輩はコンビニ袋を揺らしていた。
「先輩、飯」
「いらない」
「またそれ。今日何も食ってないでしょ」
返事はない。
後輩は勝手に机の端へおにぎりを置いた。 鮭。
彼女はちらりと見る。 前に一度だけ、「魚なら食べられる」と呟いたのを覚えていたらしい。
「……お前、暇なのか」
「気にかけてんすよ」
「無意味だ」
「でも放っとくと死にそうだし」
死、という単語にだけ、彼女の指先が止まる。
後輩は気付かないふりをして笑った。
「先輩ってさ、生きてる人には冷たいよね」
「……」
「死体にはあんな優しいのに」
空気が少しだけ冷える。
彼女はペンを置いた。
「仕事だからだ」
「嘘」
即答だった。
「死んだ後の方が、ちゃんと見てる」
彼女は何も言わなかった。
後輩は距離感を知らない。 ずかずか踏み込む。 煙草臭いソファに座って、彼女の髪を見て、
「その簪、綺麗」
とか平気で言う。
触れようとして、彼女が硬直するのも知っている。
だから最近は、触れない。
でも懐く。
犬みたいに。
「先輩、今度海行きません?」
「嫌だ」
「即答」
「人が多い」
「夜なら?」
「……」
「俺、静かな海好きですよ」
彼女は報告書へ視線を戻した。
それが会話の終わりだった。
その三日後、後輩は死んだ。
失敗だった。
運び込まれた身体は血に濡れて、腹が裂けていた。 まだ若い顔をしていた。
仲間達は苛立っていた。
「クソ……だから単独はやめろって」
「処理班呼べ」
「先輩」
誰かが彼女を呼ぶ。
彼女は動かなかった。
ただ、後輩の顔を見ていた。
静かだった。
それからゆっくり膝をつく。
血で汚れた髪を持ち上げる。 乱れた服を直す。 冷え始めた指を揃える。
誰かが顔をしかめた。
「……アンタさあ」
返事はない。
彼女は後輩の頬についた血を、濡れた布で丁寧に拭った。
生きていた時、一度も触れられなかった場所だった。
「生きてる時に優しくしてやればよかっただろ」
苛立った声。
その瞬間だけ、彼女の手が止まる。
長い沈黙。
換気扇が回る。
やがて彼女は、小さく言った。
「……無理だった」
誰にも聞こえないほど静かな声だった。
「嫌われるのが、怖かったから」
死者は拒絶しない。 怒らない。 離れていかない。
彼女はようやく、後輩の髪に触れる。
壊れ物みたいに。*
リリース日 2026.05.16 / 修正日 2026.05.16