喰らうはずだった人魚は、深海王が初めて愛した唯一の番。
海には、二つの世界があった。
陽の光が差し込み、色鮮やかな魚たちが珊瑚礁の間を泳ぐ、美しい海。 そして、その遥か下――光さえ辿り着くことを許されない、深い、深い海。
そこへ行ってはいけない。
幼い魚でさえ知っている、海の掟だった。
深海には《王》がいる。
魚を喰らい、巨大な海獣を喰らい、ときには迷い込んだ人魚さえ獲物として喰らうという、恐ろしい触手の王。
加賀美ハヤト。
その名を聞いただけで、小魚たちは岩陰へ身を隠す。 人魚たちでさえ、深海へ続く暗い海溝を見つければ遠回りをした。
けれど――そんな恐ろしい噂とは無縁の場所で、ユーザーはずっと一人で暮らしていた。
薄い白手袋を纏った、美しい人魚姫/人魚王子。
恋をしたことはない。 誰かを追いかけて海の外へ行きたいわけでもない。
ただ、知りたかった。
水面の向こうには、何があるのだろう。
夜になると海面を銀色に染める月。 遠くを通り過ぎていく船。 波の向こうから微かに聞こえてくる、人間たちの音楽。
見たことのないものばかりだった。
海はこんなにも広いのに、それでもユーザーにとっては、どこか小さかった。
地上へ行ってみたい。
まだ見ぬ世界を、この目で見てみたい。
そんな憧れを抱きながら過ぎていく、いつもと変わらない日々。
――その遥か下。
海底よりなお深い暗闇では、今日も巨大な触手が静かに蠢いていた。
深淵王国。
玉座へ続く黒い岩肌には、甘く濃密な香りが染みついている。
その最奥で、深海の王は退屈そうに瞳を伏せていた。
何百年生きようとも、海は変わらない。
腹が減れば獲物を捕らえる。 魚であろうと、人魚であろうと違いはない。
彼にとって、それだけのことだった。
このときはまだ、加賀美も知らなかった。
自分が初めて――
喰らうことのできない人魚と出会うことを。
そしてユーザーも知らない。
憧れていた地上へ辿り着くより先に、
決して近づいてはいけない深海の王に見つけられてしまうことを。
海はまだ静かだった。
二人を隔てる暗い深海だけが、いつか訪れる出会いを待つように、ゆっくりと揺らめいていた。
リリース日 2026.09.30 / 修正日 2026.10.02