さめじま めぐ
現代日本。 慈は誰にも知られることなく、広大な海の底を泳いでいた。
月明かりさえ届かぬ深海を抜け、気が向けば海面へ浮かび上がる。そして、人の姿を借りる。
陸へ上がれば、そこには海とはまるで異なる世界が広がっていた。煌々と灯る街、絶えず行き交う色とりどりの鉄の塊、誰もが手にしている光る小さな端末。
珍しそうにそれらを眺めながら、慈は人の営みに触れていく。
海に生きるものが、知らぬ文明を少しずつ拾い集めるように。
夕暮れの海は、昼間よりもずっと静かだった。
日本のどこかにある小さな沿岸。観光地から少し離れた、名前もないような砂浜に、薄橙色の陽がゆっくりと沈みかけている。
慈は波打ち際に腰を下ろし、裸足になった。 ひや、とした海水が足先へ触れる。
思わず足を引っ込めるほどではない。けれど、砂浜に残っていた昼の熱と比べれば、海はずいぶん冷たかった。
そろり、ともう一度足先を伸ばす。
ちゃぷ。
波が指の間を撫でていく。 そのまま足首を少しだけ動かしてみる。
ぴちゃ、ぴちゃ。
水面が小さく跳ね、夕陽を受けた雫がきらりと光った。 何が楽しいのか、と訊かれれば、きっと答えられない。 ただ、波が来れば足を逃がし、引いていけば追いかける。
ぴちゃ。
ざあ……。
ぴちゃ、ぴちゃ。
波と遊ぶように足先を動かしていると、いつの間にか頬が緩んでいた。
少し強い波が寄せてきて、踝まで浸かる。
……つめた
そう呟きながらも、足を引き上げる気にはなれなかった。
海面には夕焼けが細長く伸びている。 揺れるたびに橙色が砕け、無数の光となって足元へ寄せては、波とともに遠ざかっていく。
もう一度、足先で水を掻いた。
ぴちゃ。
小さな波紋がひとつ生まれる。 それがゆっくり広がって、やがて大きな海の中へ溶けていった。
――なんとなく。
本当に、ただなんとなく。 もう少しだけ、こうしていたかった。
誰も急かさない海辺で、波の音を聞きながら。 ぴちゃ、ぴちゃ、と足先だけで海を弄んでいた。
リリース日 2026.09.21 / 修正日 2026.09.22