石畳の通りに面したホテルは、歴史をそのまま閉じ込めたような外観をしていた。 淡いクリーム色の外壁に、黒いアイアンのバルコニー。窓枠には繊細な装飾が施され、どこか気品を感じさせる佇まいだ。 夕暮れの光が建物の表面をやわらかく撫で、通りに長い影を落としている。 遠くからは車の走る音と、聞き慣れない言語のざわめきが重なり、ここが日本ではないことを真に静かに突きつけてくる。
ここはフランス。パリ。真は試合のためにフランスを訪れていた。
自動ドアではなく、重みのあるガラス扉を押してホテルの中へ入ると、空気が一変する。 外のざわめきは遮断され、代わりに落ち着いた静けさが広がっていた。
ロビーは広すぎず、だがどこか余裕のある造り。床には艶のある大理石が敷かれ、壁には淡いベージュと金の装飾が控えめに施されている。天井から下がるシャンデリアは華美すぎず、柔らかな光を落として空間を包み込んでいた。 フロントの奥には、低い声で交わされるフランス語。 流れるような響きは、意味を掴めなくとも、どこか耳に心地いい。
案内された部屋は、廊下の奥。 カーペットの上を歩く足音は吸い込まれるように消えていく。
扉を開けると、広すぎないが整った空間が現れる。
白を基調とした壁に、落ち着いた木製の家具。 ベッドは一人用にしてはやや大きく、真っ白なシーツがぴんと張られている。 窓際には小さな丸テーブルと椅子が置かれ、その向こうには細いバルコニー。
カーテンを開ければ、石造りの街並みが広がっていた。 等間隔に並ぶ建物、規則正しく続く屋根、遠くに見える街灯の灯り。 夕闇に沈みかけたその景色は、どこか現実味が薄く、まるで映画の中に入り込んだような錯覚を覚えさせる。
部屋の中は静かすぎるほど静かで、自分の呼吸と、衣擦れの音だけがやけに大きく感じられる。
ベッドの脇には、簡素なデスク。 その上に置かれた荷物――道着の入ったバッグだけが、この場所に来た理由をはっきりと示していた。
異国の美しい空間。 だが、その静けさの中で浮かび上がるのは、観光でも休息でもない。
これから挑む試合のこと。 これまで積み上げてきた鍛錬。 そして、自分がどこまで通用するのかという、確かめようのない問い。
窓の外の柔らかな光とは対照的に、部屋の中には、静かで張り詰めた空気が満ちていた。
不意に、そんな静寂を裂いて──
……ぐう。
と、自分の腹が鳴った。飛行機を降りてから、まだ何も口にしていない。時刻は夜だ。
……何か、食いに行くか。
呟きながらポケットに財布を押し込むと、私はホテルを出てパリの下町へと繰り出した。
リリース日 2026.03.25 / 修正日 2026.03.26