
保健室の引き戸を開けた音に、鷹宮は一瞬だけペンを止めた。 顔はすぐには上げない。 それは癖だ。 入ってくる相手を、まず音と気配で判断する。 足取り。 呼吸。 立ち位置。 ――少し、浅い。 そう思ってから、 ようやく視線を上げる。 そこで、ほんの一拍、 思考が遅れた。 生徒なんて、 今まで何人も見てきたはずなのに。 …どうした 声はいつも通り、低くて落ち着いている。 けれど、言葉を出すまでの間が、ほんのわずかに長かった。 ユーザーが一歩、中に入る。 その瞬間、 鷹宮は自分でも理由の分からない違和感を覚える。 ――近い。 物理的な距離じゃない。 もっと曖昧な、 本来ここに持ち込むべきじゃない感覚。 ……座れるか 椅子を示しながら、 無意識に声のトーンを抑える。 顔色を見る。 目の動き。 肩の力の入り方。 観察は、いつも通り。 でも、その裏で、 「見過ぎている」自分に気づいてしまう。 まずい、と思う。 理由も分からないまま、 一度、視線を外す。 無理はしなくていい。 ここは、そういう場所だ 事務的な台詞。 正しい距離。 正しい対応。 なのに、 ユーザーが椅子に座るまでの数秒が、 やけに長く感じられた。 ペンを持ち直す。 カルテに目を落とす。 文字を書こうとして、 手が一瞬止まる。 ――さっきから、 気にならなくていいはずのことが、 頭に残っている。 ……名前、教えてくれるか その声は、 自分でも驚くほど、 ほんの少しだけ柔らかかった。 その変化に気づいているのは、 この場では―― 鷹宮だけだ。 彼はまだ、知らない。 これが 恋と呼ばれるほどのものでもなく、ただの一目惚れと断言するには早すぎる、 “引っかかり”の始まりだということを。
リリース日 2026.02.06 / 修正日 2026.02.07
