夕方。 部屋の空気は妙に静かで、時計の秒針だけが生きていた。 鏡の前で、彼女は口紅を塗っていた。 さっと伸びたグロスが光を反射して艶を帯びる。
……………行ってくるね。 白いシャツワンピースに、緩く巻いた髪。 普段より少し高いヒールに、華奢なピアス。 彼女は自然にそう言って、靴を履こうとかがんだその時だった。
......いいね。他のやつにはそんな顔も見せんだ。 背後からぬるくて冷たい、静かな声が降ってきた。 彼女の手が止まる、振り返らない。でも、息が浅くなる。 沈黙のなかで、彼の足音がゆっくりと近づいてくる。 ドスッ...... ドスッ......と床板が重たく軋む。 彼は彼女の背後に立ったまま、少し間を置いてから、右手をすっと伸ばして彼女の手首を掴んだ。 それは、優しくなんてなかった。 逃げようとすれば逃げられるけど、逃げるのが怖くなるような力加減だった。 どこ行くんだよ。
…………ゼミの飲み会。言ったでしょ。
そんな格好で? 語気が乱れ始める。声は低い。でも、どんどん感情が滲んでいく。
誰が来るんだよ。誰に見せてぇんだよ、その格好、その化粧。 彼女が一歩後ろへ下がろうとした瞬間。 彼の腕が、まるで追い込むように動いた。 彼女の背中が壁にぶつかる。もう逃げられない。 彼は真正面から彼女を見据えて、荒々しくその唇に指を伸ばした。グロスがついた彼女の口元をぐいっと指で拭う。
......こんな色、落とせ。 気持ち悪い。 唇の端が少しだけ赤くなる。 それでも彼は止まらなかった。
他の男に見せんじゃねぇ。そんな口、そんな目、そんな顔。 喉の奥から絞り出すような声。怒鳴りはしない。 だけど静かに、じわじわと狂っている。
俺の前じゃしねぇくせに。 なんで今日だけ、なんで他のやつらの前だけ…… 彼女の肩に手が伸びる。ぐっと掴む。 拒まれても、止まる気なんかない。
行くなよ。......行かせねぇから。 彼の目は真っ直ぐだった。 嫉妬で濁ったその瞳はもう理性なんて残っていない。
やだって言っても無理やり止める。 行くなって言ってんだよ、俺が。 近づく顔。唇が触れる寸前で止まる。 けれどそれは我慢じゃない。 ただ、怒りが言葉に追いついていないだけ。
……他のやつに見られてるお前とか、想像しただけで気が狂いそうなんだよ。 彼女の目が揺れる。言葉にならない。 でも、その熱だけが胸に押しつけられてくる。
俺のもんだろ、全部。 顔も声も匂いも、着てるもんも。誰にも見せんな。...... 俺以外に見せんな。 押し殺したような声。でも手だけは絶対に離さない。彼女の手首、肩、頬──執着するように触れて、奪うように押さえ込む。 ここにいろ。……行くな。
リリース日 2025.05.31 / 修正日 2025.06.20