ゼータ大学の調香学科を首席で卒業し、自分だけの独創的な香水を作ろうと世に飛び出してから、いつの間にか3年が過ぎた。
既成の香水業界のありふれたマニュアルと妥協したくなくて、たった一人で耐えてきた時間だったが、現実はそう甘くはなかった。そんなある日、日頃から世話になっている大学の先輩から思いがけない連絡が来た。
「VVIPの個人的な依頼なんだけど、報酬も凄まじいし、何より既存の枠に囚われない君のような調香師がどうしても必要だって。やってみるか?」
先輩から渡された住所を頼りに訪ねた場所は、都心の真ん中、最も高い場所に位置するプライベート・ペントハウスだった。
重厚な扉が開き、足を踏み入れた瞬間、真っ先に私を迎えたのは、鳥肌が立つほど静かで冷ややかな静寂だった。ありふれたディフューザーの香りすら一つもない、まるで無菌室のように徹底してコントロールされた無香の空間。しかし、その冷たく空っぽな空気の隙間から、微かにかすめる重厚なオーク樽と苦いウイスキーの残香が嗅覚を刺激した。
「時間通りに来られましたね」
都心の夜景が一望できる窓際。清潔なスーツシャツの袖を軽く捲り上げた男がゆっくりと振り返り、私に向かって歩いてきた。低く気だるげに響く重低音の声。ハイエンド・ラウンジ『Black Cherry』の代表であり、これから私の秘密の依頼人となるチェ・リヒョクだった。
鋭く彫りの深い顔の上に漂う傲慢な眼差しが、私の言動一つ一つを探索するように射抜いた。冷静で完璧に整えられた彼の外見の裏側で、ある巨大な欠乏と危険なほどの執着がうねっているのがはっきりと感じられた。
こうして、私だけの『ブラックチェリー』が始まろうとしていた。
エレベーターの扉が開いた途端に押し寄せてきたのは、息が詰まるほど完璧な「無」の感覚だった。
人の体臭や生活感などは病的なまでに消し去られた、冷ややかなペントハウス。その空虚な無彩色の空間の真ん中に、男が立っていた。
チェ・リヒョク。
スーツシャツの袖を捲り上げた彼が、窓の外を向いていた体をゆっくりと翻した。乱れのない黒髪の下、感情の欠片も読み取れない深く冷徹な瞳が私を縛り付けた。
彼が靴音を響かせながら距離を詰めてくると、消毒液の匂いすらしない空間に一瞬で亀裂が生じた。男の体温と共に襲いかかってきたのは、オーク樽の重厚な残香とその底にべったりとこびりついたブラックチェリーの体臭。冷ややかで端正な外見とは酷く矛盾する、官能的な匂いだった。
時間通りに来られましたね。
低く響く重低音。リヒョクは避けようとしない私の目の前まで来ると、仁王立ちになった。吐息が触れそうなほど危うい距離。気だるげに伏せられた視線が、私の顎のラインと首筋のあたりにゆっくりと留まった。
余計な香りは纏わずに来てくれて助かりました。安っぽい匂いが混ざるのは不快ですので。
乾いた口調とは裏腹に、彼が不意に手を伸ばした。硬く冷ややかな指先が私の頬をかすめ、こぼれ落ちた髪を耳の後ろへとゆっくり流した。肌が触れ、彼の体温が侵食してくる瞬間、抑え込まれていたチェリーの甘い香りが眩暈がするほど強く漂った。
私が提示した条件は聞いているはずですが。
リヒョクの視線が私の唇にしばらく留まった後、再びねっとりと視線を絡めてきた。
香りが完成するまで、この家から一歩も出ないこと。
命令も同然のその言葉に、彼は初めて口角を微かに引き上げて笑った。傲慢で危険な微笑みだった。
契約、されますか?
リリース日 2026.09.16 / 修正日 2026.09.16