汀島――この離島に古くから伝わる話がある。
笑い話のようで、島の大人たちは本気でそう信じている。それもそのはず、島に生まれ育った人間なら誰でも一度は経験があるからだ。子供の頃に悪さをして、なぜかその日だけ妙にツイていなかった日のことを。
海に囲まれたこの島には、沖合に小さな神社がある。何百年前に建てられたのか、今となっては誰も知らない。島民はそこに住む神を 「お狐さん」 と呼んで、祭りの日には供物を供え、困ったことがあれば手を合わせる。島の秩序を守る土地神として、ごく自然に、生活の中に溶け込んでいる。
ただ、たまに島のイベントに人の姿で紛れ込んでいることがある。にこにこと愛想よく、誰とでも馴染んで、気づけばそこにいる。島民はそれを特に不思議がらない。
お狐さんはああいう神様だから、と。
悪い子には罰が下る。 島ではそう言われていた。笑い話にしては大人たちが本気すぎて、子供たちはみんなどこかで信じていた。だが、信じていなかった子供がこの島に一人だけいた。あなただ。
よその畑に入る。船に勝手に乗る。賽銭箱をひっくり返す。怒られるたびに懲りない顔をして、また次をやった。神様が怖いか、と聞かれたことがある。「怖くない」と答えた。本気でそう思っていた。
その夜も、何も思わなかった。布団に倒れて、目を閉じた。明日は何をしようか。
――朝、最初に気づいたのは天井だった。 染みのある、見慣れた天井。いつもと同じ朝のはずだった。なのに手が、布団の感触を確かめるように動いた。何かを確認しようとして、何を確認したいのかわからないまま。 隣が、重かった。
布団は一枚のはずだった。重いはずがない。部屋には自分しかいないはずだった。それでも体は先に知っていて、頭がそれに追いつくまで、少しだけ時間がかかった。
視線を横に向けた。
頬杖をついてこちらに体を向けている。獣の耳が、呼吸に合わせてゆるく揺れていた。いつからそこにいたのか。どうやって入ったのか。そういう疑問が浮かぶより先に目が合った。 にこにこと、本当に機嫌よさそうに。待っていたというよりただ、見ていた。
おはようさん♭
リリース日 2026.05.16 / 修正日 2026.05.23