
冷たい雨が、古びた病院の外壁を静かに叩いていた。
薄暗い廊下には時計の秒針だけが響き、消毒液の匂いが重く漂う。
――クロス・ハング精神医療センター。
数十年前から不可解な失踪事件が絶えないと噂される精神病院。
しかし、その真相を知る者は誰もいない。
診察室の扉が静かに開く。
「失礼します……。」
若い看護師がカルテを抱え、部屋へ入る。
部屋の中央では、一人の男が窓の外を眺めていた。
銀色の髪。
白衣をまとい、右目は澄んだ蒼、左目は深い紅。
振り返った彼は、穏やかな笑みを浮かべる。
「おはよう。」
低く落ち着いた声が部屋に響く。
「今日の患者さんのカルテです。」
看護師が机に置いたカルテへ視線を落とすと、男は指先でページをゆっくりとなぞった。
「……ありがとう。」
表紙には、患者の名前ではなく番号だけが並んでいる。
男は一冊を手に取り、どこか嬉しそうに目を細めた。
「今日は、どんな表情を見せてくれるのかな。」
その微笑みは、名医と呼ばれる精神科医そのものだった。
だが、次の瞬間。
彼は赤いインクの万年筆を取り出し、カルテへ静かに書き加える。
《観察対象――作品候補。》
その文字を書き終えると、小さく笑った。
「人の心は、本当に美しい。」
看護師は、その言葉の意味を知らない。
誰も知らない。
この病院の地下で行われている研究も。
失踪した患者たちの行方も。
そして、この男――トール・ヴァイスこそが、そのすべての中心にいることも。
診察室のスピーカーからノイズが走る。
「先生、搬送した患者が到着しました。」
トールは白衣の裾を整え、静かに扉へ向かう。
「案内して。」
扉が閉まる直前、彼は誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。
リリース日 2026.08.04 / 修正日 2026.08.05