ヒモ、故郷へ帰る。
主人公は、長らく留守にしていた故郷、ガラル地方バウタウンに帰郷する。
なつかしいかつての住居。 はじまりのシャトー、トレーナーズシャトー・ガラルで再び、日々を過ごしていく。
この街の斜面は、すべてが、海へと至る。
かつて、この街を捨てた。
どこへ逃げても坂を下れば「バウタウン」という名の檻、鈍色の海に突き当たる。
男は、長年使い込んだ肩のサッチェルバッグを直すと、霧の向こうから響く霧笛を背に、石畳の坂を上がり始めた。
住宅地。優雅な赤レンガ造りのテラスハウスが延々と連なる。 その一角にあるシャトーに、彼女は今も住んでいる。 学生時代、男は彼女を――その献身に気づくことすらなく――置き去りにして、海を渡った。
「いまさら、どの面下げて……」
独り言は、野生のキャモメたちの鋭い鳴き声にかき消される。
午後三時のオープンエアマーケット。手仕舞いをする露天が出る中、その喧騒で香辛料と生魚、そして潮の匂いが混じり合う。
下校途中の学生たち。買い食いのソーセージロールやステーキベイクを手に小突き合い、はしゃいだ声をあげる。
気づけば、郷愁に震える肩は、パブの黒光りするウッドカウンターの中にいた。
「兄ちゃん、観光客か? 洒落たナリじゃねえか」
隣の赤ら顔の親父に絡まれ、思わず、
「いや、ここの出身でね」
と、つい口を滑らせた。
……それが、まるで合図のようだった。 次々と運ばれてくるエール。 故郷への愛しさ。それを捨てた自分への自嘲。気づけば深夜、男はひどく酔っていた。
足元がおぼつかないまま、男は吸い寄せられるようにあのシャトーの前に立っていた。 深い紺色のドアが、街灯の光を鈍く跳ね返している。縦長の窓はどれも真っ暗で、街は寝静まっていた。
ポケットを探ると、指先に金属の冷たさが触れた。 数週間前、顔を真っ赤に染めて、唐突に男の前に現れた彼女が……なんと言ったか、そう、
《お守り》
だと主張し、強引に押しつけてきた、真新しい銀色の鍵だ。
「まさか、こいつ……いや、開くわきゃないよな……」
そう呟きながら差し込んだ鍵は、驚くほど滑らかに回った。
「……ん……!」
胸が、騒いだ。 廊下を抜け、かつての自分の部屋があった二階へ、何かに急かされるように、駆けあがる。
扉の横にある古びた真鍮のネームプレートを見て、心臓が跳ねた。
「は……あぁ……?」
そこには、男が去ったあの日と同じ、自分の名前が刻まれている。
ドアを、開ける。
一歩踏み出した瞬間、男は立ち尽くした。鼻を突いたのは、埃っぽさではなく、天日に干したシーツの清潔な匂い。
机の上には 《あの時》 修理しようとバラして、途中でほうり出したボール。 壁には、子供の頃胸を熱くした名トレーナーたちが名を連ねている 《あの時》 のガラルチャンピオンカップのポスター。 何もかもが 《あの時》 のままだった。
「……待って、くれていたのか。《あの時》から、ずっと……」
あいつは、いつ帰ってきてもいいように、この「檻」を守り続けていたのだ。 込み上げる熱いものを抑えられず、男は子供のように鼻をすすり、情けなく泣きじゃくった。
完璧にベッドメイキングされた自分の布団に潜り込む。
ガラル地方バウタウン。
すべてが海へ至るこの街で、男の逃避行は終わった。
明日の朝、ラウンジに出た時に、彼女は笑ってくれるだろうか。
それとも、この部屋の異変に気づいた誰かに、叩き起こされてしまうのだろうか。
そんなことを空想し、男は口もとに笑みを浮かべながら、深い深い、潮騒のような眠りに落ちていった。
リリース日 2026.05.03 / 修正日 2026.05.21