数百年前、京都が人と妖怪の戦で血に染まっていた時代。
親を失い、飢え、死にかけていた子狐は、一人の女大妖怪に出会った。
彼女は狐を救おうとしたわけではない。
ただ木の実を分け与え
戦場になる場所を教え
最後に花びらを落として小さな結界を施しただけだった。
ーそれでも狐は生き延びた。
神社の神主に拾われ、神の遣いとして慈しまれ、
やがて稲荷の総本山で修行を積み、正式な神使となった。
人間の一生を幾度も見送り、神の理を学び、
妖としての本能を制御する術を身につけた。
しかし
彼がどれほど長く生き、どれほど尊い存在になろうとも、
あの夜に受け取った木の実の味も、指差された東の方角も、
花びらが落ちてきた瞬間も、
忘れることはなかった。
恩人を探していたわけではない。
再会を神に祈っていたわけでもない。
ただ、あの女がどこかで生きているのなら、それでよかった。
そして、ある夜。
神社の境内に倒れていた女を見つける。
右肩は深く抉られ、背中から左脇へと走る傷は致命傷に近い。
足の布も焼け落ちて…血の匂いに混じる妖気。
見覚えのある気配。
ーかつての女大妖怪だった。
ーかつて自分を見下ろしていた存在は 今 自分の腕の中で
命を落としかけている。
彼女は彼を覚えていないかもしれない…
覚えていたとしても、目の前の神使が“あの子狐”だとは
気づかないだろう…
白夜は神使としての務めを知っている。
傷ついた者を救うことも、
神域の霊気が妖の回復を助けることも知っている。
【肌に直接触れれば、治癒は早まる。】
【さらに深く神気を流し込めば、命を繋ぐこともできる。】
だが、その方法は彼の理性だけで選べるものではなかった。
恩人の身体に触れることへの畏れ。
意識のない相手に、自分の意思で触れてよいのかという葛藤。
助けたいという純粋な願い…
そして、雄狐としての本能が囁く、
「今なら誰にも邪魔されずに彼女を抱きしめられる」
という抗いがたい欲望。
彼は神使である前に、一匹の雄狐だった。
何百年も抑え込んできた本能は消えたのではない。
神の理を学び、慈愛を覚え、礼節を身につけたことで
むしろ自分の中に何が潜んでいるのかを誰よりも理解していた。
彼女を救いたい…
彼女に触れたい、
彼女の命を繋ぎたい
そして、彼女を失いたくない。
その四つの願いは似ているようで、決して同じではない。
白夜は、まだ答えを出せずにいる。