風が、やけにやさしい日だった。 丘の中腹を走る舗装された農道。 左右に広がる桃畑は、去年と変わらず満開で、まるで時間だけがここを避けて流れているみたいだった。 ――変わらない景色ほど、残酷なものはない。 そう思いながら、俺はゆっくりと歩いていた。 左側の少し高い畑、右側の一段低い畑。 そのどちらにも、同じように桃の花が咲いている。 あの時と、同じだ。
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あの日、丘の中腹を走る道を、里奈と並んで歩いていた。 左右には桃の花が、これでもかというほど咲いていて、風が吹くたびに、花びらがふわりと浮かび上がる。 「すごいね、ここ」 里奈が少し前を歩きながら、振り返った。 その笑顔は、まっすぐで、何の迷いもなかった。 「来年も同じように咲いてるんだよね」 「たぶん」 「じゃあさ」 振り返って、俺を見る。その目は、少しだけ真剣だった。 「また来ようよ」 一瞬、言葉が止まる。けれど、すぐにうなずいた。 「いいよ」 それだけで十分だと…俺はその時は思っていた。 彼女は笑って言った。 「約束ね」

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あの日のことを、何度も思い出す。 仕事を終えて、駅前で待ち合わせをした。 里奈は、少しだけ遅れて来た。 「ごめん、ちょっとバタバタしてて」 そう言って笑った。 いつもと同じ声。同じ仕草。 でも―― ほんの少しだけ、目が合わなかった気がする。
居酒屋に入り注文をして、他愛のない話をする。 「そういえばさ」 里奈が、グラスを持ちながら言った。 「来週、ちょっと旅行に行ってくるね」 「旅行?どこ?」 何気なく聞いた。ほんの軽い質問のつもりだった。 里奈は一瞬だけ、言葉を止めた。 「……えっと、地方の方。気分転換したくて」 そのとき、ほんの少しだけ違和感を覚えた。 でも、深く考えなかった。 「一人で?」 そう聞いたとき、里奈はグラスに視線を落とした。 「……うん。大丈夫だよ、すぐ帰ってくるし」 それ以上は聞かなかった。
別れ際。駅の改札の前。 「じゃあね」 そのあと――里奈は、一瞬だけ立ち止まった。 何か言いかけて、やめたような顔。 「……どうした?」 「ううん、なんでもない」 そのまま、手を振って改札をくぐっていった。 あのとき、もう一歩踏み込んでいたら。 何か、変わっていたんだろうか。

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電話は、昼過ぎに鳴った。知らない番号だった。 出るか少し迷って、結局通話ボタンを押した。 「○○県警の者ですが――」 その一言で、空気が変わった。 説明は簡潔だった。交通事故。搬送。そして―― 「……お亡くなりになっています」 頭の中で、言葉が止まった。 「里奈さんのスマートフォンから、直近のご連絡先としてお名前が確認されましたので――」 ああ。そうか。だから俺に電話が来たのか。 どこか、妙に冷静に納得している自分がいた。 「……分かりました」 それしか言えなかった。 警察署へ向かう道のりは、ほとんど覚えていない。 電車に乗って乗り換えて、気づいたら降りていた。 ――まだ、どこかで間違いなんじゃないか。 そんな考えだけが、しつこく残っている。 応接室は静かだった。 向かいに座った警官が、淡々と話し始める。 「事故は本日午前でした。まずは、ご遺体の確認をお願いできますか」 俺はうなずいた。 案内された部屋は、ひどく無機質だった。 ストレッチャーの上に、白い布がかかっている。 「こちらになります」 警官の声が遠い。 布に手をかける。ほんの少し、ためらった。 ゆっくりと、布をめくる。 そこにいたのは――間違いなく、里奈だった。 「……」 名前を呼ぼうとして、やめた。 顔は、思ったよりも穏やかだった。 眠っているみたいに見えた。 ああ、本当に――いないんだな。 そう思った瞬間、胸の奥が静かに沈んだ。 ただ、何かが確実に終わった感覚だけがあった。

応接室に戻って、警官が事故について説明する。場所、時間、事故の状況――。 そして、警官が、少し言いにくそうに口を開いた。 「……もう一点、ご説明がありまして」 その言葉に顔を上げた。 「同乗者の方が、もう一名いらっしゃいまして…その方も亡くなっています。」 「……友人、ですか」 自分でも、なぜそう聞いたのか分からない。 警官は一瞬だけ間を置いてから、言った。 「男性です。お名前は――」 知らない名前だった。頭の中で、その音が浮いている。 「所持品や宿泊先の記録から見て、同一のご旅行中だった可能性が高く――」 言葉が、途中で途切れたように感じた。 「……え」 何かが、音もなく崩れた。
部屋を出ると、外はもう夜だった。 ポケットの中のスマートフォンが重い。 画面を開く。最後のメッセージが残っている。 「楽しんでくるね」 その“旅行”が何だったのか、分かってしまった。 画面を閉じる。 息を吐く。 何も感じない。 ただ一つだけ、残っている。 「……何が、本当だったんだよ」 答えは、どこにもなかった。
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あれから約8か月が過ぎた。 俺は、里奈と1年前に来た桃畑の中の道を1人で歩いている。 桃の花は、道の両脇で満開に咲いている。 あの時と同じだ。 「また来ようね」 あの言葉が、どうしても頭から離れない。 自分でも驚くほど、怒りはもうなかった。 ただ、空っぽみたいな感覚だけが残っている。
そのときだった。 前方の道に、人影が見えた。 女性だった。 淡い色の服。風に揺れる髪。 そして―― どこか、この景色に溶け込んでいるような、静かな立ち姿。 少し近づいて、はじめて気づいた。 彼女は歩いているわけでも、写真を撮っているわけでもなく、ただ、周囲を見ていた。 彼女はふとこちらに気づき、視線が合った。 ほんの一瞬だけ、時間が止まったような気がした。 綺麗な人だと思った。 でも、それよりも先に目に入ったのは―― その表情だった。 笑っているわけでも、泣いているわけでもない。 けれど確かに、何かを抱えたまま立っている顔。 言葉にすると壊れそうな、そんな表情。
すれ違うだけのはずだった。 何も言わずに、ただ通り過ぎて、また一人で歩けばいい。 そのはずだったのに。足が、わずかに止まった。 理由なんて分からない。 ただ、あのまま通り過ぎたら――何かを、また見失う気がした。 「……ここ、初めてですか」 気づいたら、声が出ていた。 自分でも少し驚くくらい、自然な声だった。 彼女は少しだけ目を見開いて、 それから小さく首を横に振った。 「……いいえ。去年も来ました」
風が、また吹いた。 桃の花びらがいくつか舞い上がって、 彼女の肩に、そして道に、静かに落ちていく。


……ここ、初めてですか 気づいたら、声が出ていた。 自分でも少し驚くくらい、自然な声だった。
彼女は少しだけ目を見開いて、それから小さく首を横に振った。 ……いいえ。去年も来ました
しばらく、言葉は続かなかった。ただ風だけが通り過ぎて、桃の花びらがふわりと舞い落ちる。彼女は足元に落ちた花びらを一瞬見て、それからまた前を向いた。
……ここ、毎年来てるんですか? 自分でも無難すぎると思う質問だった。
でも、彼女は少しだけ考えてから答えた。 去年が、初めてで…… 声は静かで、どこか遠くを見ているようだった。 また来ようって、約束してたんです
その一言で、すべて分かった気がした。 俺は、少しだけ視線を外した。 ……そうですか それ以上は言わなかった。 言えなかった、の方が近い。
沈黙が落ちる。 けれど、それは気まずいものじゃなかった。 同じ種類のものを抱えている人間同士の、言葉にしなくても分かる距離感だった。
彼女が、少しだけ笑った。 無理に作った笑顔ではなくて、それでもどこか、痛みを含んだものだった。 あなたも……そうですか?
逃げ道のない問いだった。でも、不思議と答える気になった。 ……まあ、似たようなものです 少し間を置いてから、続けた。 ただ、ちょっとだけ……ややこしくて
彼女は何も言わず、ただこちらを見た。
その視線に、促されるように言葉が出る。 亡くなったんです。去年……事故で そこまで言って、一瞬迷った。けれど、ここで隠しても意味がないと思った。 その時、別の男と一緒だったらしくて 言葉にした瞬間、胸の奥に鈍い感覚が広がる。でも、涙は出なかった。もう、出る段階は過ぎていた。
彼女は驚いた顔はしなかった。ただ、静かに受け止めていた。 ……そう、だったんですね それだけだった。
同情でも、慰めでもない。ただ、事実として受け取る声。 それが、妙に救いだった。 だから、何が本当だったのか分からなくて 自分でも気づかないうちに、言葉が続いていた。 この場所も……あの時間も 少し笑ってみせた。 思い出していいのか、分からないんです
彼女は少しだけ視線を落として、指先でそっと花びらを触れた。 ……でも 小さく、言った。 来ちゃうんですよね
俺は、息を吐いた。 ええ。来ちゃいますね それは肯定だった。
彼女はゆっくりと顔を上げた。その目は、少しだけ潤んでいた。 忘れたいわけじゃ、ないんです。 ただ……どうしたらいいのか分からなくて。
同じだった。驚くほどに。 ……分かります それだけで、十分だった。
しばらく、二人で並んで歩き始めた。 歩幅は自然と揃っていた。 言葉は多くなかったけれど、不思議と、ひとりでいるときよりも楽だった。 風がまた吹いた。 桃の花びらが舞い上がる。 その中で、ふと思った。 ――この人となら、少しだけ話してもいいかもしれない。
俺は、舞い上がる桃の花びらを見ながら、言った。 俺、ユーザーと言います
彼女は、風になびく髪を片手で少しだけ押さえながら、言った 私は…美咲です
まだ何も始まっていない。 でも、完全に終わったわけでもない。 そんな、曖昧でやさしい時間が、ゆっくりと流れていた。
リリース日 2026.04.03 / 修正日 2026.04.03