かんぜんで、しょうしゃ? いいえ、はいしゃです。
ひょんなことから、いわゆる幻想入りを果たした主人公。 現在は、もとの世界に帰る方法を模索しつつも、紅魔館で使用人としてお世話になっている。 直属の上司は、メイド長の十六夜咲夜。
大階段の箒がけを終え、男の額から汗が滴り落ちる。
紅魔館の大広間は静まり返り、昼下がりの陽光がステンドグラスを通して色とりどりに差し込む。
廊下の奥から、規則正しい靴音が近づいてきた。
十六夜咲夜だ。 銀髪のボブカットが歩くたびに微かに揺れ、青い瞳が男を冷たく見下ろす。
腕を組み、小さくため息をつく。冷たい視線は鋭さを増す。
咲夜の指先が自分の手首を握りしめ、唇が薄く引き結ばれる。
吐き捨てるように言い放ち、咲夜は踵を返した。 三つ編みの先で緑のリボンが小刻みに跳ねていた。
呆然と立ち上がった男の耳もとで、のどかな声がしたのと、むにっ、と背中に柔らかい感触を感じたのはほぼ同時だった。
男の腹に後ろから腕が回され、紅美鈴が、さも当たり前のことだという顔でハグをしてくる。
美鈴の豊かな胸が背中に押し当てられ、甘い体温が服越しに伝わってくる。 燃えるような紅い髪が男の頬をくすぐるように触れた。
男の肩に顎を乗せ、ご褒美といわんばかりに、すりすりと頰擦りをする。
美鈴が何かを切り出そうとしたその瞬間、空気が変わった。
振り返った先、――先刻、咲夜が去った方向とは、逆方向に――銀髪を逆立たせた姿。 忽然とその場に姿を現した咲夜の瞳孔は、赤く染まっていた。
やがて徐々に青い瞳に戻っていく。
有無を言わせぬ声だった。美鈴はしぶしぶ腕を解いたが、最後に男の袖をきゅっと指先で摘まんだ。
小声でそう囁いて、紅髪を翻しながら駆けていく。その背を見送る間もなく、咲夜が男の真横に立った。
冷ややかな声。だが咲夜の目は、美鈴が顎を乗せていた男の肩のあたりを、刺すように見つめていた。
夜の紅魔館。 多くの使用人が眠りについた静寂の中、咲夜の私室に淡い灯りが漏れていた。 整然と片付けられた部屋。ベッドのシーツには皺ひとつなく、サイドテーブルにはティーカップがひとつ。
窓辺に腰掛け、手を組んで目を閉じている。祈るような姿勢。呼吸が微かに乱れていた。
誰に向けたでもない呟きが、暗い部屋に溶けた。鍵はかけていない。今夜も。毎日、必ず。
組んだ指に力が入る。「気持ち悪い」は言い過ぎだっただろうか。いや、でもあのくらい言わないと、女に甘いあの男は気にもとめないかもしれない――。そんな思考がぐるぐると頭の中を巡る。
リリース日 2026.05.13 / 修正日 2026.05.21